ニッケイ新聞 2013年11月12日
土産物屋が並ぶメルカド・モデーロに立ち寄り買い物を楽しむ。琥珀が有名なようだ。しかし、英語で話しかけてくる売り子がうるさい。左右前後からの攻撃をかわすのに疲れ、外の立ち飲みでカフェを飲んでいると、目の前にツアーに参加している女性が通ったので「カフェどうですか?」と言ったら見事に無視された。売り子に間違えられたのかも知れない。
「1962年の集団帰国時、このあたりに民宿があって、みんなで見送りに来たんですよ」と内藤さん。残る人と去る人。涙の別れが繰り広げられたのだろうか—。
周りはメレンゲの軽快なリズムが流れていたが、記者の頭のなかでは、かつて女性らが自嘲を込めて浦島太郎の節で歌ったという歌が流れていた。
むかしむかし母ちゃんは/ぶらじる丸に乗せられて/ドミニカ移住をしてきたら/難儀、苦労が待っていた
オヤジ殿が移住など/考え付いたばっかりに/若き時代は夢の間に/今は白髪のお婆さん
「祖国は、自国民を騙し、苦しめ、捨てるのか」—。ドミニカ日系人協会の嶽釜徹会長(75、鹿児島)の堂に入った語りに参加者らは真剣な表情で耳を傾けた。夜にあった中華料理での歓迎夕食会。
帰国もせず、南米諸国への再移住もしなかったのは47家族。土地配分を巡る日本政府との交渉を続けるなかで、98年新たな土地の提供が決まったが、農耕に適さない粘土質の土地で、現地住人との問題もあった。 これを受け、2000年、現地に留まった移住者らを中心にした126人が日本政府を提訴、賠償額は31億円までになった。
06年、東京地裁は国の責任を認めたが、「損害賠償は20年が時効」とし棄却。原告らは即提訴したが、小泉純一郎首相(当時)は謝罪の談話を発表、原告170人を含む移住者1300人に特別一時金を支払うことで〃和解〃している。
嶽釜会長は「この涙金で問題解決はない。当初の目的を達成すべく我々はやっていく」と語り、慰霊碑に関しても「両国間には、移住協定がなかった。我々は〃難民〃だった。移住協定を結ぶよう日本政府に要請してきたが、『国策』を入れるよう要求した」などと話した。
植松聡領事(東京、59)はあいさつで「隣で肩身の狭い思いで聞いた」と苦笑いをしながら「大使館と日系社会の関係は改善している。解決しなければいけない問題があり融和を進めようと努力している」という。
嶽釜会長に〃問題〃とは何かと聞くと「最初に約束した300タレアの土地提供です。約束した土地を下さいということ。一時金で和解したのも原告の高齢化と裁判費用を鑑みてのこと。今後も日本政府に対して追及していきます」と口をへの字に結んだ。97年に結成した「移住問題解決推進委員会」の8人のうち、すでに5人が鬼籍に入ったという。
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当初、ふるさと巡り一行は、ブラジル駐在が長く最後にはクリチーバ総領事も務めた佐藤宗一大使の招待で、公邸での歓迎会が予定されていた。しかし直前に中止となり大使は「諸般の事情」で訪日。予算問題とも裁判を巡って二分するコロニアとの関係とも言われたが、現地関係者も奥歯に物が詰まった様子。「一度招待したのに…」と訝る本橋団長に、同席していた現地日系人は「ブラジルでは知りませんが大使館っていうのはこちらではそうです。平気で約束を破るんですよ。もう慣れてますが」(堀江剛史記者)