ニッケイ新聞 2013年11月13日
通常の日系カトリック史において、ノロエステ線プロミッソン植民地のゴンザガ地区に、1934年に落成献堂されたクリスト・レイ教会(正式名称=キリスト王日本二十六聖人天主堂)に脚光が当たることが多い。この点においても、レジストロは正史から抹消された歴史がある。
長崎二十六聖人の名を冠したこの教会は、隠れキリシタンで有名な福岡県大刀洗町出身者の集団地に作られ、日本人初の海外布教使、中村ドミンゴス長八神父(長崎出身)が落成記念ミサを執り行った。まさに正統派の日系カトリック教会だ。
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しかし、実はレジストロにはもっと古い「サンフランシスコ・ザビエル教会」がある。『レジストロ植民地の六十年』(1978年)120頁によれば、1926年定礎式、1928年に第一期工事を終わらせた。つまり6年も早い。
26年といえば、サンパウロ市では8月に広田鷹造がサンゴンサロ教会でギード神父から洗礼を受けたのが「邦人布教の開始」(『暁の星』在伯日本人布教沿革誌、54年、32頁)とある。まさに日系カトリック布教の黎明期だ。
だがこの教会、ちょっと不思議な設立経緯を持つ。ここも最初に建設を計画したのは、やはり大刀洗町の今村天主堂の信者4家族だった。彼らが地元ブラジル人と協議してジョアキン・マルケス、ミゲル・アビアザール、青木新次郎、栗田平一が発起人となり、1924年から教会堂建設を思い立ち、寄付金15コントを集めていた。それを知った海興の白鳥所長が次のアイデアを思い付いた。
《この頃(1924年)のレジストロ植民地は代表的な日本人植民地として内外に注目されていたが、教会堂が中心となって村落が形成される習慣になじんでいるブラジル人にとって、教会堂一つない植民地というものには違和感があり、それが当時問題となりつつあった日本人不同化論の一つの論拠として利用される恐れもあった。そこで当時の海興所長白鳥堯助(あきすけ)は教会堂の建設を考え、この計画案を一九二五年来伯中の海興社長井上雅二に相談し、日本側での資金援助方を懇請した。井上社長はこの話を聞いて、時節柄適切にして緊要な計画であると賛同、帰国後関係者と相談、夫人の井上秀子が側面より募金に協力〜》(『60年』120頁)とある。
白鳥の発案を受け、当初の計画に合流した形で、第一期工事が行われた。総工費約90コントのうち、海興が中心になって日本側で集めた資金が66コントだ。つまり事実上、海興が作った教会といっていいものだった。
日本側での協力者にも著名人が多い。《同氏(井上雅二)が母国で直ちに公爵近衛文麿氏、宮内庁御用係海軍少将山本信次郎、望月軍四郎氏等にご相談くださいました〜》(『暁の星』沿革誌、39頁)
井上雅二の妻秀子は日本女子大学学長であり、夫より遥かに有名だった。婦人参政権獲得を目的に1930年に「婦人同志会」結成の発起人になるなど近代史に名を残した。望月軍四郎は湘南電気鉄道取締役会長などを務めた大物実業家であり、錚々たる人物が教会建設に協力したのは、知れらざる歴史の一幕だ。
井上雅二の意図はキリスト教振興ではない。1924年に米国で排日移民法が可決され、ブラジルでもレイス法案が議論されている中、最初の本格植民地たるレジストロ地方を守るための政治的な配慮から建設を進めた。
そこへ1928年、ドイツ人だが金沢や山形、秋田で15年間も布教歴があり、日本語の堪能な神言会のアロイシオ・ローゼン神父が赴任した。35年には、やはり山口や岡山で8年を過ごしたギリェルメ神父を迎え、布教活動を活発化させた。(つづく、深沢正雪記者)