ニッケイ新聞 2013年11月14日
急峻な山道をバス2台がうなりながら登っていく。今回の旅行でバスは3回変わった。やはり山頂付近でオーバーヒート。一台を残し、長野県伊那谷そっくりの盆地を下っていく。風光明媚という表現が似合う。
脇輝亀会長(58、鹿児島)をはじめとするコンスタンサ移住地のみなさんが笑顔でお出迎え。蔬菜作りやトルコ桔梗、ベニ花などの花卉栽培が盛んだという。会館内に移住当時の写真や当時の農機具などが置かれ、あちこちで再会を喜ぶ声がはじけた。
多くの人の抱擁を受けた山上桃代さん(旧姓米丸、60、鹿児島)もコンスタンサ出身。幼馴染の今井(旧姓脇)由美子さん(60、鹿児島)は「桃代ちゃんの兄のタゾウが悪かったのよ〜。よく女の子らで談判してねえ」と懐かしみ、目頭を押さえた。
法要後、婦人部らが作った料理に舌鼓を打ち談笑を楽しんだ。会館の前で「ユーカリの木を覚えているので、ここかなと思ったけど違うね」と山上さん。すぐ近くに移民が入った家が残っていると聞き、皆で向かう。「うわ〜! ほんとだ。ここですよ〜」と驚く(2回目に登場した)大村順子さんは「食器も家具も全部新品でね。懐かしいねえ」と写真を撮っていた。今も現地の人が住んでいるという。
現地に住む脇蝶子さん(82、鹿児島)は「順子ちゃん、桃代ちゃん、名前は覚えているけど、面影はないね。日本は食べる、着るのも困るほど貧乏だった。白ごはんが食べられるから来て良かった」と笑った。
翌日、市営墓地にある慰霊碑に参拝。佐藤大使も姿を見せ、炎天のなか焼香。その後スーパーに。カフェやラム酒などをお土産に買い、やはり農業経験者らしく、野菜、果物コーナーを興味深そうに見る人も多い。帰り際、家電製品売り場が一体が血の海になっている。テロか通り魔かと身を屈め周りを伺うと最高齢の八巻タツさん(87、福島)が座り込んでいる。
「いんや〜店の人に言われて気がついたけど、こんなの初めてだあ」とケロリとしている。どうも足首の静脈瘤の部分が切れて出血したようだ。 かつて指の先端を切り落としたさい、石油に漬けて治したという女丈夫だけに何のそのである。
1957年に第4陣としてダハボンに移住。息子の達緒さん(64、同)と参加した。「二毛作なんだけど水が足りない。3キロ離れた水門の番人を監視するのが仕事。水の取り合いで喧嘩もあった。私らが出るときは7家族残っていたけど…行ってみたかったねえ」
ダハボンで妹のように仲の良かった八巻キイさん(77、福島)にも今回会った。「だけど50年の話を2、3時間じゃ話せんもんね…」。家族4人はブラジルへ転住、サンパウロ州タピライをはじめ転々とした。
「頑張らんかったらどこでも同じよ。だけど子供を犠牲にしたよね」と見遣った達緒さんが「やっぱり勉強がしたかったよね」とポツリ。「日本よりドミニカにずっと来たかった。だって7年住んだところだもん。願いが叶って安心しました」とタツさんは〃ふるさと巡り〃を満喫した様子だった。
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最後はカリブ海に面したリゾートホテルへ。参加者らはそれぞれの思いを胸に椰子の木が立ち並ぶ〃カリブ海の楽園〃を楽しんだ。一行がドミニカを後にした5日後の27日、物故者慰霊祭があり、参列した約50人が現地でなくなった173人の冥福を祈った。(おわり、堀江剛史記者)