ニッケイ新聞 2013年11月19日
最初の植民地だけに、つねに排日の矢面に立たされるつらい境遇に置かれていた。そのゆえ、カトリック信徒になることは、「異分子」扱いされやすい社会的抑圧を中和するための大事な手段であった。
桂植民地に住んでいた柳沢嘉嗣(よしつぐ、89、二世)=イグアッペ在住=は「桂には小学3年までしかなかったので、フランシスコ・ザビエル教会付属学校で4年まで終えて、桂に戻った」と言う。「父自身は仏教徒だったが、子供にはみなカトリコにさせた。『ブラジル人はみなカトリコから、同じ宗教を信仰しないと反感を持たれる。〃郷に入っては郷に従え〃だと。父はここの習慣に倣え』と言っていました」と思い出す。宗教においても「郷に従え」という風潮が、当時の植民地では当たり前だったようだ。
「父は戦争が始まるまで日本に帰るつもりでいた」とも。永住志向のイグアッペにおいても気持ちは揺れ動いていた。
吉岡初子(81、二世)=レジストロ在住=も「ザビエル学校に通いました。私の時は女性のみ8年生まであった。男性は4年まで。その上はサントスからサンパウロ市の学校に行かなければならなかった。レジストロにようやく中学(ジナジオ)ができたのは1950年すぎ」と振りかえる。
初子は海興職員だった父に「どうして仏教の学校を作らなかったの?」と聞いたことがある。父は「ブラジルはカトリックの国だから教会を作ったんだ」と答えた。
また清丸(せいまる)米子(よねこ)(80、二世)も両親とも仏教だったが、「日本語しゃべるローゼン神父、ギリェルメ神父がいたので、日本生まれの兄が兄弟を誘ってカトリコになった」という。
1955年時点で、ジュキア駅から桂植民地までの区間に在留日本人家族は《全家族五三七中三三三家族、すなわちその6割強がカトリック教会と繋がりをもっている》(『暁の星布教沿革史』46頁)との数字が出ている。子供をカトリックにする日本式〃郷に従え〃は、かなり広く行われたようだ。
同教会発起人の一人、青木新次郎は、《西洋人の集団地に見るごとき教会中心の生活が徐々に実現しつつある事は真実である。好ましからぬ日本村、不同化民族として排日家に取り上げられた往時を回顧して正に隔世の感、移住者と共に祝杯を挙げたい》(『暁の星布教沿革史』47頁)と溜飲を下げた。
カトリックにおいて子弟に洗礼を受けさせると、父兄はコンパドレ(名付け親)と〃親戚づきあい〃をする習慣がある。ブラジル人は洗礼を受けた子弟をafilhadoとして「我が子同様」に可愛がる風習があり、いち早くこの教会が出来て洗礼者が増えたことで、地元ブラジル人との融和の雰囲気が高まったことは想像に難くない。当初こそ〃政治的〃な意図が込められた一風変わった教会だったが、結果として、社会的にそのような重要な役割を果たした。
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同教会の付属学校の初代日本語教師、本間剛夫が出版した『望郷』は、勝ち負け抗争を描いて日本で出された初めての小説だ。開拓地にある勝ち組の暗殺班に属した日本語教師が、最終場面で「ジュポブラ」という川沿いの小集落に潜んでいた暗殺の標的、元少将に逆に説得されるという物語だ。つまり桂植民地がモデルになっている。
彼は同小説の著者略歴に、《昭和十六年、ある任務を帯びて帰国、主として神戸商大植民研究室で働いた。のち、召集を受けて四カ年間、南方戦線で在った》と謎めいたことを書いている。
〃ある任務〃とはいったい何なのか。海外拡大主義の強い思想を持ち、永住を誓って渡伯したはずなのに、なぜ開戦直前に帰国したのか—ー。日系最古の植民地だけに、まさに「事実は小説より奇なり」を地でいく物語が潜んでいそうだ。(つづく、深沢正雪記者)