本紙が『読本 ブラジル移民の父 平野運平』(松尾良一著、平野運平を顕彰する会発行)を無償配布している縁で、富田寛治さん(かんじ、89、山口)=パラナ州都クリチーバ在住=からの問い合わせによって隠れた逸話が見つかった。富田さんの兄恒祐さん(つねすけ、故人)が訪日した折り、運平の母の墓を見つけ出し、その土を持ち帰って、平野植民地にある運平の墓の隣に収め、仲良く碑石を建てたという。1919年2月6日に34歳の若さで、志半ばで亡くなった運平の気持ちに思いをはせた恒祐さんは「さぞ母親に会いたかったに違いない」と思いやり、05年に植民地在住者と共に祭ったという。
「松尾さんはどうして運平の本を出版されたのでしょうか? 連絡先を教えてくれませんか」。富田寛治さんは、そう編集部に電話してきた。「平野植民地は私のふるさと。運平さんの本を書いた方とぜひ話がしたい」という。1933年に9歳で入植し、思春期の16年間を過ごした。
兄恒祐さんは高齢者陸上競技の長距離選手でならし、日本の大会に参加するために1997年頃に訪日して、そのままデカセギ生活に入り日本国中を旅行して周ったという。その途中、運平の足跡をたどろうと静岡県天竜市(05年から浜松市天竜区)市役所を訪ねると、誰も知らないことに愕然とした。同市教育長と知り合い、その功績を滔々と説明すると驚かれたという。
これが縁で98年に天竜市に顕彰碑を建てようとの話が持ち上がり、恒祐さんを含め地元の人らと3人で拓魂碑(高さ1メートル、幅50センチ)が建てられた。また『郷土の偉人 平野運平さんのお話』(同教育委員会)という冊子まで作られた。
富田さんは「兄は運平の妹の婿の家を教えてもらい、運平の母の墓参りをし、そこの土を持ち帰った」という。それを05年に平野植民地内の運平の墓の横に収め、碑を建て、植民地総出でお祭りしたという。「運平はあれだけの仕事をしたが、若くしてマラリアで亡くなった。日本に帰りたかった、悔しかったに違いないと兄は考え、せめて母親に天国で会わせてやろうと持ち帰った」。恒祐さんもサンパウロ市で2年前に亡くなった。
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平野運平は1886年に静岡県小笠郡で父榛葉(しんば)健蔵と母なかの次男として生まれ、平野家の養子となった。掛川中学卒業後、東京外語大スペイン語科を卒業、笠戸丸移民の耕地通訳「通訳5人男」の一人に。コロノでは日本移民の志は果たせないと、1915年8月に平野植民地の開拓を始め、その年のうちに賛同した82家族が入植したが、マラリアで80人もが亡くなった。今も10家族近い日系人が植民地を守り通し、2年後には百周年を迎える。