ニッケイ新聞 2013年11月20日
イグアッペ植民地における新教徒プロテスタントの嚆矢は、日露戦争で軍医として活躍した後、渡伯した北島研三医師だった。日本からの聖公会信者といわれ、夫人が1922年から自宅で日曜学校を開き、新教徒の集まりの端緒となったが、夫の病死と共に解体してしまったようだ。
力行会会員でもあった聖公会の伊藤ジョン八十二牧師(1888—1969、長野県)は、北米で3年間伝道した後に1923年に渡伯し、第5部に実弟・伊藤喜久蔵の遺族が住んでいた関係で来植した。その後もたびたび訪れて伝道を続け、信州人を中心に信徒が広まったという。
1934年4月には海外各地の社会事業団に対して、皇室から御下賜金があり、当地では7団体、うちイグアッペ植民地関係は「レジストロ医局」「セッテ・バーラス医局」が入った。同仁会への御下賜金が日本病院(現サンタクルス病院)建設基金になった。
北島医師の息子弘毅(こうき)は、レジストロ初の日系薬剤士となった。後に日本病院ができると栄転し、有名な文人・北島文子の夫となった。文子は病院長の娘として1906年に横浜市で生まれ、13歳で左腕の自由を失いながらも日本女子商業卒。暖かい気候を求めて1929年に渡伯し、コレジオ・バチスタに3年在学して32年に帰国。その後に雑誌『新青年』の新人紹介に入選し、35年まで同誌に推理小説を発表した。崎山久佐衛が創立した海外植民学校でスペイン語やポ語を習い、海興の嘱託になり、雑誌『移民地事情』編集員やポ語の翻訳をした。
と同時に日本の大手雑誌『キング』『日の出』『婦人サロン』などに随筆、中南米文学の紹介を書いた。新潮社版の世界現状大観『中南米メキシコ篇』に論文「ラテンアメリカ文学の素描」を発表後、再渡伯し35年に弘毅と結婚した。育児のために11年間筆を取らず、1946年から復帰し、当地の『南米時事』『新世紀』『よみもの』『パウリスタ新聞』などで記者、編集者として活躍、寄稿も重ねた。
国際日本文化研究所の細川周平教授をして《署名を変えれば、日本の雑誌からの転載といっても通用する。北島は日本で作家経験を持つたぶん唯一の移民〜》(『日系ブラジル移民文学Ⅰ』2012年、みすず書房、85頁)と書かしめている本格的な女性小説家、記者の先駆けだった。
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そんなインテリ文人の夫、弘毅はレジストロでは学校設立などに奔走し、その貢献がたたえられ、校名として現在も残っている。1932年4月発行の同植民地の雑誌『先駆』第8号に、彼は次の「妄言二語」を書いた。
《公立であろうと、私立であろうとこの国の学校は皆ブラジル人を教育するのが目的で、決して日本人の為の日本人を作り上げるためにあるわけではない、当然のことである。然るに大体において、余程内輪に見ても邦人私立小学校は日本人の為、日本人を作ろうとして居る傾向が我々門外漢にもはっきりと認識されるのだ。ここに将来の危険がありありと暗示されている。新入者の多いキロンボ方面はさておき、純然たる日系ブラジル人で固められた桂植民地で行きあう児童が「お早うございます」とキチンと挨拶する、まさにブラジルにいる気持ちはせず涙ぐましい程うれしいが、その一面これを見る有識ブラジル人の心事に立ち入って考える時、思わず慄然とさせられる》。
地元ブラジル人市民との間にはいった弘毅は〃妄言〃と茶化しながら本音を伝えようとした。(つづく、深沢正雪記者)