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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (76)=二世「明日のブラジル市民」=なぜか好意的なメディア王

ニッケイ新聞 2013年11月22日

1933年6月29日付け「ジアリオ・デ・サンパウロ」の日本移民25周年特集中のレジストロ地方記事

1933年6月29日付け「ジアリオ・デ・サンパウロ」の日本移民25周年特集中のレジストロ地方記事

 北島弘毅は1932年4月発行の現地雑誌『先駆』第8号に、日本人教師が児童に日本語で挨拶するよう教育している背景には、《日本人は日本領土内では「オハヨウ」なんだ》という意識があることを鋭く指摘し、当時の〃日本人村〃や「植民地」という言葉の中には「日本の領土」的な意識があったことを手厳しく批判した。二世の立場から《ここはブラジルで日本領土ではない。そして彼らは立派な明日のブラジル市民である》と明言した。
 その4年後、サンパウロ市では1936年12月に二世向け機関紙『学友』に下元健郎が「私らの心情」と題して「菊花の国を尊敬することはできるが愛することはできない」という一文を書いたことが、愛国的な一世から不敬罪にあたると問題される「菊花事件」が起きた。
 人文研『年表』(83頁)には《二世がブラジルを母国として認めた最初の記録である》と書いている。でも南聖ではその4年前に「二世はブラジル市民である」との認識が文章化されていた。
 イグアッペ郡の中でも突出した農業生産額、納税額を記録していたレジストロは1934年9月17日、一つの行政区「Distrito da Paz de Registro」に昇格していた。そんな勢いに乗って1937年9月、弘毅はイグアッペ副郡長に任命された(人文研『年表』)。日系政治家の大半は戦後で、戦前はごく珍しい。彼こそ日系初の政治家かもしれない。
 1930年代、海興が抱えていた地元ブラジル人職員、弘毅のような二世が台頭し、彼らが一般社会と仲介する重要な役割を担っていた。二世の意識や活躍という部分でも、南聖地方はサンパウロ市の一歩先をいく存在であった。
   ☆   ☆
 1933年は同胞社会においては、毎年1〜2万人もの後続部隊が次々にやってくる最も勢いのある団塊世代の絶頂期で、しかも「移民25周年」という節目だった。
 移民25周年記念祭にあたり、内山総領事からは移植民事業功労者4人に表彰があった。上塚周平、坂元靖、白鳥堯助、大野長一だ。上塚以外は、すべて海興職員だ。戦前の〃御三家〃は「総領事館、ブラ拓、海興」であり、それだけ海興の存在は大きかった。
 そんな同年6月29日付け「ジアリオ・デ・サンパウロ」紙は32頁の特集号を作り、うち2頁はイグアッペ植民地のことに割いた。この特集をもとに翌34年には「Brasil e Japao Civilizacoes Cometam」(補完し合う文明、日本とブラジル)という本まで出した。
 ブラジル人記者はセッテ・バーラスで6月18日の移民25周年記念式典と記念演芸会を取材し、《幼い日本人の子供たちがブラジル国歌を歌う感動的な光景と同時に、我々の連帯精神への共感を誘う場面も見られた。ここでは12歳の男児がーおそらく純然たる女性ブラジル人教師の子供であろうー日本語で、最近日本から来たばかりの同年代の子供たちと遊んでおり、その親たちはポルトガル語を習っている》と書いている。
 排他的でない同地の雰囲気は「多人種平等」を謳う当地の理想主義者にとって「日本人までが共存できる」という姿を示した光景であり、理想が実現した一つ象徴に見えたようだ。特集とはいえ、サンパウロ州の深い森の奥にある僻地が日本人の手によって開発され富を生み出している様子を、一貫して好意的に報じている。
 同紙経営者は「メディア王」アシス・シャトーブリアンで、なぜか日本移民のことを気に入っており、戦後は秘書に日系二世もいた。ポ語ウィキ「ファルクァール」項には《シャトーブリアンが1924年にオ・ジョルナル紙を買収するときの資金は、ファルクァールが融通した》とあり、青柳が敬愛するファルクァールの盟友で、メディア王への道を後押しした親密な関係だった。
 ファルクァールの南部3州開発計画を青柳が信じて拓いたイグアッペ植民地を、その盟友シャトーブリアンの新聞が好意的に特集するというのは、何かつながりがあった可能性を伺わせる。(つづく、深沢正雪記者)