ニッケイ新聞 2013年11月26日
60年代はボサノヴァにジョーヴェン・グアルダ、70年代はMPB、80〜90年代はロック、90〜00年代はアシェーにセルタネージャ、10年代はファンキ…。ブラジル音楽の「表向きの流行」を大雑把に並べるとこういう感じであり、ブラジル国内ではいずれも強い影響力を持ち、非常に有名だ。
だが、これが「ヴァングアルダ・パウリスタ」という音楽上のムーヴメント(文化運動)に関してとなると、ブラジルの音楽ファンの間でも知っているのは「かなりの通」に限られる。
わかりやすく言えば、大手のレコード会社の商業主義に迎合しない音楽家たちが、自主的にコンサートを開き、自費で作品を発表するという、その後世界的に一般化する「インディーズ」の先駆けのような動きだが、それが1980年代の前半にサンパウロで起きていたのだ。
その拠点となったのはサンパウロ西部ピニェイロスにあった劇場、リラ・パウリスタだった。ここには1979年頃から「怒れる若者」たちが集まって、コンサートを開き始めた。この当時、サンパウロの若者たちは軍事政権の弱体化と、それにもかかわらず表現の検閲がなくならないことに不満を感じていた。
最初にリラ・パウリスタでコンサートをやりはじめたのは、「グループ・ルーモ」という派閥を組んだ、ルイス・タチットやエリオ・ジスキンド、ナー・オゼッティ、パウロ・タチットといった若手の音楽家たちだった。
すると、これに刺激されて、イタマル・アスンプソン、スザーナ・サレス、テテ・エスピンドーラといった音楽家たちが「ヴァングアルダ・パウリスタ」という派閥を組んでコンサートを展開しはじめた。彼らの活動はサンパウロの若者たちの心をとらえた。彼らの作品は自費出版を通じて発売され、全国的なヒットにこそならなかったものの、文化の新しいうねりをおこした。
そして、この動きの中で後から登場したのが、チタンスやウルトラージェ・ア・リゴールといったロックバンドで、彼らは「ヴァングアルダ・パウリスタ」のブームが終わり、軍政が終了した1985年頃から、国を代表する人気バンドにもなった。また、今日に至るまで、カルト的な支持を誇るパンクバンドのラトス・デ・ポロンもこうした流れで出てきている。
今は、このムーヴメント最大のアーティストだったイタマル・アスンプソンの作品もなかなか入手が難しく、実態がつかみにくいのが現状だ。だが、先週からサンパウロ市中央部のフレイ・カネカのイタウ・シネマで公開中のドキュメンタリー映画「リラ・パウリスタとヴァングアルダ・パウリスタ」でその実態をうかがうことができる。リラ・パウリスタが「起これる若者」たちの集う場所として用いられたのは1979〜86年で、この映画は、時代が変わり行くそのとき、当時の怒れる若きパウリスタたちが何を求めたかを知る良い機会となる。
また、イタマルたちの楽曲も今ならユーチューブなどにあがっているので、その断片に触れることはネット上でも可能だ。(22日付フォーリャ紙より)