ニッケイ新聞 2013年11月26日
重厚な作品集を繰りながら、「少しずつ細部を取り除き、骨組みだけを描き始めた。事物のエッセンスだけを描いているのが面白いところ」と作品の魅力を語るリカルドさんの言葉には、母への敬意がにじんでいる。
年を経るごとに絵の細部がこそげ落ちていき、わずか数年で抽象画に移行している。同時に、初期の作品に多い暗い色合いは影を潜め、明るい彩りが取って変わる。例えば彼女の多くの作品に表れる紅だ。まるで心の底に沈んでいた〃日本的なもの〃を吐き出すかのよう—というのは勝手な印象かもしれないが、心から自由を謳歌する彼女の喜びの表現なのは、確かな気がする。
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「画家として売れるには、相当の苦労があっただろう」と思いきや、富江さんと話していても、そんな苦労話は一向に出てこない。古くから彼女と付き合いのある画家・故間部学氏の妻よしのさん(83、新潟)に聞いても「苦労したのは見たことがない。スランプで苦しんでいるところ? そんな様子がにじんでたことはないですね」という具合だ。
間部家がリンス市からサンパウロ市に引っ越した67年、大竹富江の名は大分知られていたようで、よしのさんは「富江さんは私と年もうんと違うし、体格もいいし、雲の上の人みたいだった。ブラジル人とのお付き合いもぜんぜん怖気ないし、前向きに何でもやり遂げようという意志が強い方」と語る。
富江さん本人は「60歳になってから売れ出した」と言うが、彼女の〃出世〃に関しては、やはり「とんとん拍子で成功した」というのがリカルドさんやアシスタントの吉沢太さんの意見だ。絵を始めて6、7年後には個展を開き、徐々に新聞に取り上げられるようになっていた。
初めはモッカ区に住んでいたので、同区に住むイタリア系ブラジル人らが彼女を展覧会に誘ったりもしていたようだ。また、ブラジリア、リオなど大都市であった大展覧会にも、こまめに出展していた。でも、「まだ大竹富江の名前は誰もしらない時代なのに、いっぱい来てくれて。ノン・セイ・ポルケ」という本人の天真爛漫で無頓着な口ぶりからは、自ら必死に売り込みをした様子は感じられない。とにかく展覧会という展覧会に出品し、力試しをしたといった風だ。
アシスタントの吉沢太さん(49、埼玉)によれば、「富江さんはずっと一線でやってきただけあって、意志の強さがすごい。仕事にはすごく厳しくて、とことん納得するまでやる人」。やはり才能と地道な努力が百歳の現役芸術家を生んだのだろうか。
しかしながら、彼女の名をさらにブラジル社会に知らしめたのは息子たちの力が大きいと考える人は多い。吉沢さんは、大竹親子を「三本の矢」とうまく表現している。
オスカー・ニーマイヤーとの合同展覧会の機会には、絵が専門でありながら数々の巨大オブジェの制作にも着手した。誰かの強力な力添えがあったはずだが、リカルドさんは「母が有名になったのは自分たちの力どころか、僕たちが母の名声を利用した方」と少し冗談めかして否定する。
「パトロン? そんなものは、ほしくてもいなかった。サロンやビエナーレがあるたびに地道に絵を出品していたこと、そして、何よりもいい芸術家で勤勉だったことに尽きる。日系社会の中にとどまらなかったことも、不可欠の要因だ」と付け加えた。(つづく、児島阿佐美記者)