ニッケイ新聞 2013年11月29日
1958、62年のサッカー・ワールドカップでのブラジル代表(セレソン)の2連覇に貢献し、「史上最高のサイドバック」と称されたニウトン・サントスが27日、入院先のリオの病院でアルツハイマー症に伴う肺炎のために死去した。88歳だった。28日付伯字紙が報じている。
1925年にリオのイーリャ・ド・ゴヴェルナドールで生まれたニウトンは1948年、軍隊除隊後の23歳のときにボタフォゴに入団した。同チームの左サイドバックとしてすぐに頭角を現したニウトンは、50年にセレソン入りした。
ニウトン在籍時のボタフォゴは、フォワードにガリンシャとザガーロを擁すブラジルサッカー史に残る強豪だったが、そこでニウトンはみずからも後方から積極的に攻撃参加することでチームの破壊力を上げ、同チームの4度(1948、57、62、64年)のリオ州選手権優勝に貢献した。
特にそのイメージを印象付けたのは、58年のW杯スウェーデン大会準決勝の対オーストラリア戦だ。この試合でのニウトンは、左のウイングだったザガーロが「まるで自分と守備位置を交換したみたいだった」と言うほど、最前線での攻撃に加わった。それは当時のフェオラ監督をも当惑させたが、ニウトンは得点を決め、3—0の圧勝試合に貢献。このときのプレーは今日まで、「以後のサイドバックのプレーを変えた」と言われている。
また、巧みな知性派プレイヤーとしても知られた。62年W杯チリ大会グループリーグの対スペイン戦では、自軍ゴール前で相手フォワードを押し倒し、本来ならPKの大ピンチとなるところなのに、審判の目をごまかし、相手が自分で倒れたように見せかけてPKを免れた。こうしたプレーからニウトンは「サッカー界の百科事典」とも呼ばれ、同大会で負傷したペレに代わって大奮闘したガリンシャと共に優勝に貢献した。
ニウトンは64年に16年に及ぶ現役生活を終えたが、その間に着たユニフォームはボタフォゴとセレソンの二つのみ。そのことを誇るニウトンは「今の選手にもっとチームへの忠誠心が欲しい」と語っていた。
以後はリオのサッカー界の重鎮として貢献してきたが、2000年代後半からはパーキンソン病やアルツハイマー病などを患うなど、健康的に優れなかった。
この死を受け、現在フォーリャ紙のジャーナリストをつとめる、かつての名選手トスタンは「世界サッカーの歴代オールスター・チームを選ぶなら、ディフェンダーではベッケンバウアー(ドイツ)と共に入るべき存在」としてニウトンを称えている。