ニッケイ新聞 2013年12月7日
《1942年1月19日、サンパウロ州保安局、敵性国民に対する取締令を公布告示》(人文研年表)とある。具体的には自国語で書かれたものの頒布、公衆の場での自国語の使用、保安局発給の通行許可証なしの旅行や転居などが禁止された。
同年1月29日、リオの汎米外相会議で亜国以外、ブラジルを含む10カ国が、米国の圧力によって対枢軸国経済断交を決議する。
経済断交直後の2月から、ナチス・ドイツは報復としてUボート(潜水艦)を出撃させて、米国へ輸出するブラジル商船を次々に撃沈し始めた。
同年3月11日、枢軸国資産凍結を命ずる連邦令4166号が公布された。ドイツ潜水艦による商船被害を補償するために、枢軸国関係の資産を差し押さえるもので海興、ブラ拓、南米銀行などの日系企業を直撃した。
ドイツの攻撃は本気だった。2月から8月までだけで潜水艦の被害は19隻にも及び、死者は1千人以上になった(my.opera.com/perfeito/blog/patrulha-fab-ataca-submarino-nazista)。あちこちの海岸には、子供をふくめた死者や負傷者が打ち上げられた。有名な港町イグアッペも例外ではなく、やはり死者や負傷者が漂着したことがあり、地元医師らは必至で手当てをしたという。海岸部在住者にはUボートに対するただならぬ恐怖心があった。ドイツへ直接反撃ができない身代わりに、一般市民は近くに住む枢軸国移民に復讐や報復を願う風潮が高まっていた。
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イグアッペ港に近い桂植民地にも戦争の影が忍び寄っていた。西館正和は思い出す。「戦争になったとき僕は18、19歳だったけど、日本人会の青年会で文芸部長を拝命した。すでに青年会は二世世代が中心で、日本生まれは私しかいなかった。戦争が始まって学校を閉めるというので、たくさん本があったから、中村(伊作)さんがそれを始末してくれ、焼いてくれっていうんだ」。まるで昨日のことのように鮮明に覚えている。
「『レミゼラブル』とか『ミッシェル』『ルソーの懺悔録』もあった。訳分からなくても読んだりしていたんだ。1千册はあったんじゃないかな。あんな田舎じゃあ、大した量の本だった」。書籍の入手経路を尋ねると「青柳さんとか来るたびに本を置いていってくれた」という。
「石油缶に入れて、山の方に何日もかけて馬で運んで隠した。でも僕は本見たら夢中だったから、焼くのはもったいないって思って、山に積んであった稲穂の下とかに本を隠した。あの頃、悪いインスペトール(監察官)がいてね、中村さんがもし見つかったら心配だから『必ず焼け! 植民者一同に迷惑がかかる』っていうんだよ」。
悲しい青春の思い出だ。「それでしかたなく焼いたよ。うちの母が、何日もかかって焼いた。たくさんあったからね。悲しかったよ、もったいないって涙出たよ。教科書も焼いてしまった…」
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42年8月18日、アマゾン河口最大の都市ベレンの沖で、商船が潜水艦に撃沈されたのをきっかけに、ベレン市民はドイツ、イタリア、日本移民を襲い、家屋を破壊して甚大な被害を与えた。ブラジル政府はトメ・アスー移住地を州政府管制下に置き、州内の日本移民と子孫を集めて隔離した。
当時、度重なるUボートの攻撃に、ブラジル空軍(FAB)は飛行機で迎撃し、イグアッペ港付近でも戦闘が行われた。ブラジルは同年8月22日、ついに対独伊宣戦布告をし、欧州戦線へのブラジル遠征軍(FEB)派遣も決めた。
そして同年8月31日、ヴァルガスは世論に推される形で、連邦令10358号で「全国土戦時体制宣言」を出した。(つづく、深沢正雪記者)