山本周作(1923―2001)は和歌山県那賀郡出身で、1930年に両親に連れられ、女兄弟らと渡伯した準二世だ。目立った学歴はないが「日ポ両語が達者で、どちらで演説させてもとても説得力があった」(金子談)という。
山本はいつも「普段英語は分からないが、お茶の話をしている時は分かる」と言っていたという。「わしはあまり学校では勉強していないが、大学卒のアメリカ人と同等に付き合い、こうして会社を経営していけるのは旅行のお陰だ」と言って、毎年欧米やロシアを中心に自ら紅茶を売り込みに回った叩き上げだ。
山本は1958年、若干35歳で米国スタンダードブランド食品会社と合弁で「シャブラス社」を創立して社長に就任した。紅茶は国際商品であり、岡本寅蔵が拓いた輸出の道を、この世代が世界と本格的に競争できる体制に整えた。山本は58年に英国から最新式の大型製茶機械を輸入して、同地の紅茶産業の近代化を先導した。
1963年の入植50年祭の委員長はコチア組合の山崎良作だったが、73年の入植60年祭では山本周作が祭典委員長を務めた。70年代に同地を代表する人材はすでに準二世世代だった。73年9月の60周年祭典には弓場バレエ団が招へいされた。《アリアンサ草分け組にはレジストロ出身者が多く、その元村の六十年祭だと云うので好意的に出演を承諾してくれた》(『60年史』144頁)とある。
アリアンサという《兄弟植民地》(同146頁)からやってきた弓場勇(弓場農場)は、山本周作とすぐ肝胆相照らす仲となった。この時、金子は弓場から「おまえは良い親分の下で働いて幸せだな。頑張れよ」と励まされたと思い出す。
66年からレジストロお茶まつり農商工展「Cha Expo」が始まった。その第5回を4頁に渡って特集した日伯毎日新聞(71年1月8日付け)によれば、第1会場には《レジストロの象徴であるシャー・リベイラ、シャー・ツピー、シャー・イピランガ、シャー・ド・スール、シャー・レジーメなど各種の茶がところ狭しと展示され、いまさらながら日系生産者の偉大さを出席者に印象づけた》とある。
隣の第二会場には《新興産業としてここ三、四年アマゾンはもとよりレシフェ、ベロ・オリンゾンテほか各州に販売網を広げているゴザが展示されていた》という状態だ。こんな景気に後押しされて同地本派本願寺は67年に建立された。
レジストロには1950年代初期まで40以上の家内制手工業的な紅茶工場があったが、60年代から80年代にかけてシャブラス、コチア、シャーリベイラ、アグロシャ、ブラスペコエ(スイス人経営)、天谷、ヤマテーの七つに絞られていった。どの工場も大半が輸出向けだった。
アグロシャの亀山譲治は「58年にシャブラス、コチアが大きい工場を建てたので、小さい工場(こうば)はみんな閉めた」と思い出す。「うちはコチアのコーペラード(協力企業)。主にコチアに出していて、コチアの50%の生産はうちのだった」という。70年にコチアから独立し、主に輸出用を扱った。
金子によれば、58年のシャブラスは年間150トンの紅茶を製造したが、最盛期の85年頃は3600トンと24倍の生産量を記録した。同地最大の紅茶工場に成長し、全体の生産量の3分の1を占めるようになった。
そんなシャブラス成長の要因は、山本の才覚以外にも新潟県立加茂農林高校の卒業生4人が要所を固めたことも大きかった。また長男ダリオ茂を大学卒業後、2年間英国に送り、紅茶の販売、お茶の審査法、語学の勉強と経験を積ませるという先見の明も山本は持っていた。
金子は「英語がわかって紅茶の等級審査ができないと輸出できない。大概のお茶工場にはそれができなかった。ダリオさんがあちこちのお茶工場が作ったものを輸出手続きしていた」と説明する。(つづく、深沢正雪記者)