山本周作の人柄を尋ねると、金子国栄は「長い間その下で働き、失敗したこともあったけど、山本さんから怒鳴られたことは一度もない。すごい人格者だった。山本さんには、顔をみたらその人が『後悔している』かが分かるから、そういう人にはそれ以上言う必要ないと思っていた人だった」と回顧した。
催しがある時、寄付を募る人々がシャブラスにやって来た。そんな時、山本は必ず「予算はどの位か」とまず聞いた。使い道を知る為ではなく「総予算の10パーセントを自分が出さなければ」(金子談)と言う信念からだった。そんな企業家が今いるだろうか。
さらに金子はこんな逸話も語った。「『日本だったらこうする』『日本人ならこうだ』とすぐ言う人が良くいるでしょ。僕と一緒に来た新来者がそうだった。山本さんはそんな時、『お前の言うことが分からないでもない。日本の日本人なら90%がお前に賛成するかもしれない。でも、ここはブラジルなんだ。お前一人頑張って『これが正しい』とやっても、周りの90%がお前の考えに賛成しないのだったら、ここのやり方を尊重しないといけない。竹みたいに風に吹かれても折れないようにしなくちゃ』と言っていたのを思い出します」。叩き上げの人生の中で強かで、しなやかな生き方を身に着けていた。
紅茶全盛期の80年代、この地方はお茶畑ばかりだった。「当時、この地域では全部で年1万2、3千トン生産していた。シャブラスだけで3600トンぐらい」と金子は振りかえる。
さらに紅茶産業の裾野の広さをこう説明する。「戦後の産業の中心はお茶だったから、携わった人数もすごかった。最盛期なら六つの工場で従業員数が平均150人だとして、6工場合わせたら900家族がそこで生活をたてていた。お茶の原料、青芽(あおめ)を出す生産者は一つの工場で平均70家族はいた。70家族×6工場と計算したら420家族。各青芽農家に平均5人のコロノがいたとすると、すると2100家族が生計を立てていた。農家2100、工場労働者420を足せば、2500家族。一家族6人なら1万5千人になるでしょ」。
現在の同市人口は5万人余り。もっと少なかった当時からすれば、紅茶がいかに町の経済を支える基幹産業であったかが伺える。
アグロシャーの亀山譲治も「うちの工場では150人使っていた。ヤマ(茶畑)には150家族がいた。1970、80年頃、うちには日本人だけでも30家族いたよ。おそらくレジストロで一番日本人を使っていたのはうちじゃなかったかな」といい、主に欧米に輸出していた。「80年代が一番景気よかったね」と往時を懐かしんだ。
金子も「お茶の最盛期は1985、86年頃だったね。青芽1キロは1ドル20セントでまあまあという相場なのに、1985年頃は1年間ぐらい2ドル80セントで売れた時代だった。生産者が冷蔵庫買ったり、車買ったりとね」という。
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ただし、パ紙1967年5月19日付けレジストロ特集には、当時の国内紅茶生産量の85%強がレジストロ周辺だが、世界的に生産過剰気味で国際価格が下落傾向にあると書かれている。いわく《とくに隣国アルゼンチンの生産が急速に伸び、市場としての同国を失ったばかりでなく、むしろ競争相手としてマークしなければならなくなった。しかも世界最大の市場であるロンドンの〃好み〃のチッポを、レジストロは生産できない弱点もある。〃好み〃の趨勢が「もんだ茶」より「切った茶」に移っているにもかかわらず、加工機械設備の関係で、ついて行けない弱みだ》と書いてある。ペロン大統領の時代からの夢を実現すべく、亜国は60年代からレジストロを凌駕する紅茶産業振興を虎視眈々と狙っていた。(つづく、深沢正雪記者)