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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (112)=挑戦の始まり、ミナスへ転身=盛和塾全国大会で最優秀賞に

ニッケイ新聞 2014年1月28日
妻の由美子、板垣勝秀盛和塾ブラジル代表世話人(当時)、母モモエ(故)、勇次(04年11月にミナスの山田家自宅で撮影)

妻の由美子、板垣勝秀盛和塾ブラジル代表世話人(当時)、母モモエ(故)、勇次(04年11月にミナスの山田家自宅で撮影)

渡伯2年後に突然、父が病気で亡くなった――。山田勇次は「20歳で独立し、リベイラ河沿いにバナナを栽培した。日本への旅費を作ることだけが目的でバナナ作った。小さい時に別れた兄貴達と話をしたい」という一心だった。兄弟姉妹の上4人は日本に残っていた。

勇次は必死で働き10年ぶりに故郷の土を踏んだ。70年、日本は高度経済成長のど真ん中だった。「帰ったら、あたりが全部宅地に変わって街になっていた。移住しなかったらその土地が何億円にもなっていたかもしれない――って思ったら、すごく責任を感じた。ブラジルに帰って大儲けしないといけないって。そこから僕の挑戦が始まったんです。どうしてもそれを取り返さなくちゃいけない、帰ってから遮二無二働き始めました」。

問題山積だった。バナナ価格の乱高下に加え、「凄い水害に襲われ、泳いでバナナを収穫しなければならないこともあった。こんなのはもう嫌だ、別の場所を探そう」と思って三十代半ばで新天地を探した。

半年近く全伯を歩き回った結果、バイーア州テイシェイラ・デ・フレイタスにほぼ決まっていた。「一週間だけ契約を待って」と言い残し、大規模灌漑計画があるとの噂だったミナス州ジャナウーバ市を見に来た。当時この町の農家はみな棉作でバナナは誰もいなかった。同市の農業試験場にあった灌漑水で見事に育ったバナナ30本に目が釘付けになった。「あっ、これだ!」と直感、84年に移転した。

妻の由美子(二世、レジストロ出身)=04年11月取材=は「最初はとても心配でした。だって二人とも親戚はみんなレジストロでしょ」と語っていた。

姉の宇都宮和子は言う。「勇次がミナスに行くと聞いたときは心底驚きました。だってお嫁さんもらって、御殿のような家を建てて住んでいたんですよ。こちらでも十分立派にやっていた。だからお嫁さんも最初は絶対行かないって言っていたんです。ところが勇次は『帰れると思ったら決意が鈍るから』と土地を処分し、お嫁さんを説得して連れて行っちゃった」。

ブラスニッカ・フルッタス・トロピカイス社を創立したが、最初の5年は経営不安定だった。大量に植えたナニッカ種から突然、病害が大発生した。和子は「ミナスに行ったばかりの時はすごく苦労したって聞きましたよ。お嫁さんが言ってました。『最初は天井もないところに入ったって。家中、ポエイラだらけ』って。やることやることうまくいかず最初の5年で資金を使い果たって」と思い出す。

〃死屍累々〃の農園で、わずかに生き残ったのはプラッタ種、それを中心にやり直した。横暴な中間搾取の業者が多く、それを排除するために直売店を作り始めた。

96年からサンパウロ市のブラジル盛和塾の仲間に加わり、97年の両陛下ご来伯時、ベロ・オリゾンテで勇次は母モモエと二人で接見する栄誉に浴した。04年に日本で開催された盛和塾全国大会で、3500塾生(当時)の中から最優秀賞を受けた。バナナ園だけで850ヘクタール、従業員は約860人を数えていた。

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13年5月8日にサンパウロ市で開催された盛和塾ブラジル塾長例会では、稲盛和夫塾長を前に勇次はこう報告した。「04年の受賞時に塾長から『ブラジルに帰ってから日本人の魂を証明してください』との言葉を頂き、塾生仲間の前で『事業を10倍にする』と宣言し、今では従業員は2倍の2千人、耕作面積は2500ヘクタールに拡大した」語り、さらに「昨年、私の町の市長に当選しました」と報告した。

彼の成功に触発されて、多くの農業者が灌漑栽培に挑みバナナの一大生産地となった。84年に4万だった市人口が13年には7万人強に膨れ上がっていた。「塾長がJALを再生された姿を見て、私は稲森哲学で市を再生することを思い立ちました。市民の幸せを通して、日本人の魂を証明したい」と語ると喝采が響いた。レジストロ人脈は実に多彩だ。(つづく、深沢正雪記者)