公教育の中に日本語を取り入れる動きは現在では一般的だが、最初にそれに取り組んだ地域の一つがレジストロだ。塾的な日本語学校は減る傾向にある中、州教育局の外国語センター(CEL)のような一般教程に組み込んだ形の日語教育はむしろ拡大している。
日本語教師の金子慶子は「今はあちこちのCELに日本語があるけど、91年にはプレジデンテ・プルデンテとレジストロだけだった。でも3年後ぐらいにプルデンテは一度辞めて、今はまた戻っている。ここのCELはずっと続けて、教えた生徒数の合計は1千人以上」と説明する。
80年代後半、南米はメルコスル機運が盛り上がり、当時のオエスチス・クエルシアサンパウロ州知事は、ラ米諸国で一般的なスペイン語等を州公教育に取り入れるために外国語学習センター(CEL)を設置する法令を出した。現在では州内にCELは223カ所もあり、西語を中心に伊、独、仏、日語の授業も行われている。ただし日語は10カ所のみだ。
同法令が掲載された州官報を読んだ隅田弘(すみだ・ひろし、福岡、帰化人、元市議)は「こりゃいい。日本語も入らないか」と考え、さっそく州議会に相談に行った。すると「教室がないとダメだ」といわれ、地元ブラジル人とお金を出し合って教室を建てた。西語から始めて91年からは念願の日本語を始めた。
金子慶子は91年に州立学校を定年退職した。校長とか教育コーディネーター、師範学校も受け持っていた経験者だ。隅田が「日本語の先生がいないから手伝ってくれ」と頼んできたのがきっかけで、同年からCELを手伝っている。
☆ ☆
日本移民百周年を記念してサンパウロ州教育局は07年から日本文化を学ぶ記念事業「Viva Japao」を実施した。同年12月にその報告会として、レジストロではCELを基礎として公立学校44校の生徒2200人が日伯両国歌や日本語唱歌を合唱する等の感動的イベントを行った。
せっかくの盛り上がりを一過性で終わらせず、1954年に始まった伝統の「灯ろう流し」と組み合わせ、09年からは「平和灯ろう流し」を始めた。平和学習の一環として州立学校生徒約300人が参加して終戦の日の8月15日前後に行う。
13年8月17日の第5回同イベントで、日本語の歌唱指導をする州立学校の地域教育調整役のシルビア・ナバーロ(59)は「今年はレジストロ地方入植百周年という記念すべき年。生徒たちが平和学習を続ける意味はとても深い」と挨拶した。07年から13年までに計6500人もの州立校生徒が日本文化・平和教育を受けた計算になるという。ジウソン・ファンチン市長も自ら書いた「世界平和宣言」の中で「核廃絶という広島、長崎の想いは次世代に語りつがれなければならない」と強く訴えた。
コロニアの催しは日系人を対象とするものが多いが、同行事は最初から州立校生徒を対象に始められた特異な事業だ。地元と手を取り合ってブラジルを良くするという〃次の百年〃を目指した実践がここにある。
そんな日系社会の活動をレジストロ市長時代からじっと見守ってきたサムエル・モレイラサンパウロ州議会議長、羽藤ジョージ州議の提案により、州議会は13年11月8日に「平和灯ろう流し」発起人8人を顕彰するセレモニーを行った。
その式典の時、リベイラ沿岸日系団体連合会の山村敏明会長は感無量の様子で「やっと認められた感じがする」としみじみ語った。
10年余り前、発足したばかりの日本移民百周祭典協会には副理事長団体枠が40以上もあった。山村会長は「うちも入れてくれとお願いしたが、『CNJPの登録が完了していないからダメ』と断られた。後から聞いたらそんなの持ってない団体も入っていた…。僕らはあの時の気持ちを起爆剤にしてレジストロ地方百周年を立派にやろうって誓った」と頷いた。(つづく、深沢正雪記者)