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リオ五輪で期待のブラジル柔道=強化・普及の源流を探る=(1)=ミュンヘン銅が起爆剤に=「石井千秋を帰化させろ!」

ニッケイ新聞 2014年2月5日
〝柔道の始祖〟嘉納治五郎

〝柔道の始祖〟嘉納治五郎

1908年の笠戸丸着伯以来、空手、剣道、相撲などの武道を含め、多くのスポーツが日本から当地に流入してきたが、柔道ほど非日系人に浸透し、テーラロッシャ(赤土)に根を張った競技はほかにない。昨年9月のリオ世界選手権ではついにブラジル人女性柔道家が金メダルを獲得する快挙を達成した。そして2年後のリオ五輪に向けてもっともメダルを期待される競技として注目が集まっている。その強化と普及に大きく貢献した戦後移住者と、その周辺にいたブラジル人らを中心にスポットを当てた。(敬称略、酒井大二郎記者)

2012年のロンドン五輪の4個を筆頭に、ブラジル柔道は、ブラジルの五輪メダル獲得総数の2割弱を占めて(108個のうち19個)大きな存在感を放つ。多くの愛好者を抱え、世界有数の競技人口を誇る。

そんなブラジル柔道が非日系への浸透に向けた第一歩を踏み出したのは、1972年のミュンヘン五輪で帰化人・石井千秋が93キロ級の銅メダルを獲得したことだった。

「本当にブラジル柔道を強くしたい、より普及させたい。本気でそう願い、奮闘したブラジル人だった」と石井が話すのが、アウグスト・コルデイロ(故人)だ。石井に帰化するよう説得した当時のブラジル柔道連盟の会長だ。

ミュンヘン五輪から遡ること4年の1968年、現在のブラジル柔道連盟の前身にあたる団体は、ブラジル拳闘連盟の一部門でしかなく、扱える予算も全国的な影響力も微々たるものだった。当然組織的な強化もままならず、初のブラジル開催となった1965年のリオ世界選手権も地元開催にも関わらず、メダル0という屈辱的な惨敗を喫する。

当時、柔道部門の代表を務めていたコルデイロは、拳闘連盟から分離独立し、国からより多くの予算を勝ち取ることこそが競技力向上、全国的な普及の鍵と考えた。それには「分かりやすい結果」が必要だったが、目立った国際大会で結果を残せる有能な選手は当時のブラジル人にはいなかった。そのジレンマを解消し得る方法が優秀な〃移民選手〃の帰化だった。

68年のある日、1年半の南米武者修行生活を終えてブラジルに戻っていた石井は、サンパウロ市の倉知光道場に籍を置いていた。全伯柔剣道大会の個人戦を連覇するなど、優秀な結果を出していた。

それに目をつけたコルデイロは「お前なら必ず勝てる、お前しかいない。ブラジルが好きで移民してきたんだろう?」と熱烈な説得を開始した。石井としても「『次の世界選手権は俺と一緒に行こう』という言葉に魅かれ、実際自分より強いブラジル人はいないと思っていたので、ブラジル代表になることに違和感はなかった」と当時を回想する。

戦前移民の古参柔道家などからの反対はあったものの、信念を持って突き進むコルデイロに怖いものはなかった。翌69年に石井の帰化申請は無事に承認され、71年のドイツ・ルートヴィヒスハーヘンでの世界選手権で見事銅メダルを獲得、ミュンヘン五輪での躍進へと繋がっていった。

この結果を受け、ミュンヘン五輪後の72年の暮れ、コルデイロの思惑通り正式にブラジル柔道連盟の設立が国から認可され、拳闘連盟からの独立を果たした。(つづく)