桂植民地が消えて無くなったように、リベイラ沿岸には泡沫の如く数知れない人材が育って活躍し消えていった。連載では残念ながら、そのごく一部しか扱えなかった。
例えばセッテ・バーラスの平出延平(ひらいで・えんぺい、長野県諏訪郡)なども同地が海興第3植民地として1920年に開設された直後の21年に入植した先駆者だ。最初は米作に従事し、26年にはリベイラ河畔に食料品、雑貨を扱うカーザ・ペロラを開業し、みなが集まる場となり、日本人会創立者となった。
第58回で紹介した沼田家のように戦前に同地から大半が転居したが、平出のような人物が杭となってコロニアを守り、現在の地歩を築いた。
『曠野の星』1954年2月号(23頁)にも平出は《町で一番の大きな商店を経営し、日本人の為に万丈の気を吐いて居る人だ》と評されている。同地最盛期の24年頃には300家族を数えたが、54年時点で日本人はわずか45家族。
平出は《何処へ行ったって同じことだ。あっちこっち動かないで、まァここで腰を落ち着けてやってゆこう》と同誌に心境を語っている。《町では日本商人が九十パーセントの経済力を占め、独占の形だ。平出、橋本、椛田商店等が群を抜いて居り、有村、藤木、笹井の諸氏が商業の中堅どころで活躍して居る》と当時の様子を描写する。うちの数人が「二世クラブ」写真に写っている。
日本人は減ったが、現地人は増えて購買力が年々上がっており、そこに将来の望みをかけていると語っている。いわば最初に入った日本人として先行者利益を享受できる立場になっていた。その利益を独占せずにサンミゲル街道建設や街の造成に還元し、同地連合日本人会の会長を長く務め、56年に旧会館を建設した功労者となった。57年に最初のレジストロ文化協会が発足した時も副理事長を務めた。
そんな平出の名は、1991年に法令でレジストロとセッテ・バーラス間の州道139号の街道名に残された。日本移民の名が全伯各地に地名や道路名として残っているのは、そんな積み重ねだ。
復活の新会館を建設した遠藤寅重現会長も、平出を「歴史の一駒に残すべき人物」と代表的先駆者だと強調する。
百年後の現在からみた時、「海興の構想がそのまま成功した」とはとても言えない。だが、「結果的に」なら、海興が意図した共存共栄の雰囲気が維持され、レジストロを中心にして地域全体で発展する構図が作られてきたと言えそうだ。
レジストロ政治家史『Os Bastidores』の著者は《フリーメイソン、日系コロニア、ライオンズとロータリークラブの支援なくして、この町の市長にはなれない。少なくとも市長選で敗北した者は、みなそう感じている》(87頁)と分析している。
実際にそうかは別にして、そのような〃存在感〃があることは間違いない。それは長い時間をかけないと醸成されない。それが一世紀という時間のもつ〃重さ〃だ。
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ブラジル移民という細い「けもの道」を切り開いたのは水野龍だった。現実的な彼は「移民」(農業労働者)という一時的デカセギを入れた。青柳が国家的な人材を背景にブルドーザーの役割をして「大通り」に広げて植民の道を拓いた。
最初に海興が植民地を拓いて、そこにブラジル人労働者や商人が増え、町として拡大した。その中で日系社会は町の中核を担う人材を輩出し続け、地域社会と共に繁栄していく。そんな南聖地方の歴史が、関東軍を背景とした満州移民と対比される〃平和的な日本人移住〃という壮大な民族的実験そのものといえる。
近代日本史において実に稀な実績であるにもかかわらず、送り出した側の日本では認識されていない。植民という試みの出発点は、共存共栄を実践してきたリベイラ河沿岸にあった。この地が日本移民にとっての「ブラジルのナイル河」と言われるゆえんだ。(つづく、深沢正雪記者)