石井千秋を帰化させたブラジル柔道連盟会長アウグスト・コルデイロの功績は非常に大きかった。とはいえ、帰化しただけで石井のもとにメダルが降ってきたわけではない。
体制面の構築を引っ張ったのがコルデイロであれば、質の高い稽古の場を創出し、代表選手らを含めた競技力の底上げに大きな役割を果たしたのが、まさに石井を含めた戦後移住の有段者たちだった。
中央大学の副将として全日本選手権でも活躍、1966年に来伯し、ミュンヘン五輪時の代表チームの監督を務めた岡野脩平(当時講道館5段、76、北海道)は、サンパウロに移住してきた当時の当地柔道界を、「色々な派閥が入り乱れる混沌とした時代だった」と表現する。
ブラジル柔道は1909年にリオデジャネイロの海兵学校で柔道を指南した記録が残る三浦鑿に始まり、ブラジリアン柔術の先駆者であるガスタニオン・グレーシーに手ほどきしたコンデ・コマこと前田光世の活躍や、講道館と連携を保った大河内辰夫(のちの大河内製薬創立者)らの尽力により、30年代初頭にはすでに道場が普及するまでに至っていた。
ただし、先述のように当時の拳闘連盟柔道部門に統制力がなかったため、日系社会には講道館系など各流派や道場、ブラジル社会にも現在のバーリ・トゥードにつながる柔術など複数の流派が並存していた。60年代のサンパウロ市は、それぞれの流派が昇段認定を出して正当性を主張する混乱期にあった。
本来段位を発行するはずのサンパウロ州柔道連盟(50年代後半に設立)も形骸化していた中、岡野がまず取り組んだのは、周囲の移住有段者たちと連携して日本の講道館からの承認を得て、当地で講道館式の昇段試験を開くことだった。当然、他の流派から非難の声は上がったがサンパウロ州連盟に働きかけ、同方式での段位認可制度を連盟側に移管し、半ば強引な形で統一への一歩を踏み出させた。
同時に67年頃から石井や、後に代表監督として76年のモントリオール五輪を指揮する小野寺郁夫(故人)らとともに、サンパウロ州内の優秀な選手を選抜した合同強化練習をサンパウロ市で主宰、「最強・日本」の最新の柔道を若い選手らに叩き込んだ。
この強化練習は州外からの参加者も現れるほどに拡大した。20年以上に渡って続けられ、ブラジル柔道史上初のオリンピック金メダルを獲得したアウレリオ・ミゲル(88年ソウル五輪、95キロ級)を筆頭に、多くの五輪メダリストを輩出した。
強化練習参加者で構成されたサンパウロ州選抜チームは全伯大会でも無類の強さを誇り、連盟の本部が置かれたリオに対し「サンパウロこそ強化の中心地」という立場を決定付けていく。その中心にいたのが、戦後移民の日本人有段者たちだった。(つづく、敬称略、酒井大二郎記者)