〃ある任務〃とは何なのか。日本移民百周年(08年)の前後から興味深い事実が次々に明らかになった。海興のエメボイ農事実習所卒、レジストロで教師をしていた本間剛夫(第74回)は開戦直前に急きょ帰国し、終戦直後に東京で出版された小説『望郷』(1951年、宝文館)の著者略歴に《昭和十六年、ある任務を帯びて帰国》と謎めいたことを書いた。そして、半世紀後に「小説」という形で本間は真相を吐露した…。
エメボイ卒業生名簿を見ると、リベイラ河沿岸には渡辺至剛、宮島三郎、野口勇吉、深谷清節、桑原恭介、石田嘉幸、豊田慶策、本間剛夫らが入った(『エメボイ実習場史』増田秀一、81年、291頁)。171人の実習生・作業生のうち8人と、かなり多い。海興との繋がりの深さの一端が現れている。
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国際日本文化研究センター教授の細川周平は近著『ブラジル日系文学Ⅱ』(細川周平、2013年、みすず書房)の中で本間剛夫に一節をさき、「勝ち組になり切れなかった男」として論じた。
第1回芥川賞の石川達三が『望郷』の帯を書き、当時新東宝で映画化の話が持ち上がるほど話題を呼んだが、本間は小説家として大成はしなかった。細川も《興味深い題材の小説もあるが、文学は余技で終わった》(『文学Ⅱ』743頁)とか《半世紀後の一般読者からは見放され、歴史家しか喜ばせない》(同761頁)とバッサリ切った。
でも2005年、なんと93歳の時に発表した小説『パナマを越えて』には長年口を噤んできた〃ある任務〃について記した。いわば人生最後の小説だから生涯最大の秘密を明らかにした。
開戦間際の1941年、本間剛夫はレジストロから出聖して南米銀行に勤めていた。独裁政権の移民法(法律第3010号)により、外国人教員が非合法になり学校を追い出されたからだ。母校エメボイも36年に閉鎖、いわば戦前日本で風靡した八紘一宇思想につながる移住理念から渡伯した青年が、ヴァルガス国粋政策によってはじき出された失意の状態だった。
史実のままの設定の中、こんな具合に小説『パナマを越えて』が始まる。
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――夜明け前、自宅に突然、南銀店長から電話で「旅券を持って来い。日本へ出張だ」との命令が下った。詳細を知らされず、指定されたサントス港の黒い貨物船に乗ると、ボーイは本間を船長室に案内した。
そこには二人の日本人紳士、一人が船長で、もう一人のやけに眼光鋭い人物は「黒石武官」と小説に描かれている。
当時、実際に大使館付武官だったのは、「和魂和才」を唱えた生粋の国粋主義者、中西良介大佐だ。ブラジルだけでなく亜国などの武官にも同時に就任していた。日露戦争では亜国軍艦が重要な役目を担ったが、第2次大戦時も軍部は南米に期待する部分があり、その裏工作を担っていたことは想像に難くない。帰国後、1944年に大本営参謀兼参謀本部課長にまでなった。南米での裏工作が多少なりとも評価された可能性が考えられる。
小説の中で、その武官は《アメリカとの戦争は不可避の状態にある。そこで君に頼みがある》と、ワイシャツをたくし上げて、胴に巻いた黄色い帯のようなものを本間に渡した。《どっしりと重い帯をしめながら、封筒の中でサラサラと鳴る砂のような音を聞いた。封筒の中身は戦争に重要な役割を果たすものなのだろうか》(11頁)という場面が描写されている。
その貨物船自体、軍需物資満載だった。その中で最も機密度が高い軍需品を肌身離さず持ち歩き、日本まで持ち帰ることが特命だった。真珠湾攻撃直前、その貨物船が米軍厳重監視の緊迫した雰囲気のパナマ運河を越え、横浜港に辿り着くまでの過程を小説は描く――。
もちろん「小説は小説」であり、その資料的な価値は要検討だ。でも「小説だから書ける真実」があることも否定できない。多少の脚色はあっても基本的には実話を元にしているようだ。(つづく、深沢正雪記者)