軍事政権時代(1964~85年)の代表的な反抗の闘士で、1971年に行方不明になった元連邦下議のルーベンス・パイヴァ氏(1929~71年)に関し、退役陸軍大佐が真相究明委員会にパイヴァ氏の死因について虚偽のアリバイ工作を行なったことを明かした。7日付伯字紙が報じている。
それまで公式には「行方不明」と発表されていたパイヴァ氏が、長年の疑惑どおり、リオの陸軍秘密警察(DOI―Codi)で拷問にあって死亡していたことが真相究明委員会によって正式に認定されたのは昨年2月のことだった。同委員会によると、パイヴァ氏は71年1月20日、亡命者を手助けしようとしたとして空軍によって逮捕され、DOI―Codiに連行された。同氏はその2日後の22日に脱獄を試みようとしたが、3人の軍警に拷問され死亡したとのことだ。
その当時、軍によって発表された情報は、パイヴァ氏は71年1月20日に軍による取調べ後、ゲリラたちが破壊装置として使うはずの家を認知させるために軍警の運転する車で移動中、ゲリラの挟み撃ちにあい、乗っていた車が焼き討ちにされた。後部座席にいたパイヴァ氏はそのままゲリラに誘拐され、行方不明になった、というものだった。軍は今日に至るまで、この説を変えようとしていない。
だが6日、当時DOI―Codiに属していたライムンド・ロナウド・カンポス退役陸軍大佐がグローボ局の報道番組「ジョルナウ・ナシオナル」内で、昨年12月に真相究明委員会リオ支部で、パイヴァ氏の死の偽証アリバイ工作を行なったことを認めた、という証言を行なった。
カンポス氏の証言によると、71年1月21日に当時の陸軍少佐だったフランシスコ・デミウルゴ・サントス・カルドーゾ氏(故人)からの司令を受け、他の2人の軍人と共に、パイヴァ氏が行方不明になる前に乗っていたとされた車をゲリラが襲ったと発表されたリオ市アウト・ダ・ボア・ヴィスタまで移動させ、その車を銃で撃ち、さらに火をつけたという。また、カンポス氏は、その時点で、パイヴァ氏が既に死亡していることも耳にしていたという。
軍による「公式発表」は、当時DOI―Codiに勤務していた医師が1986年に、パイヴァ氏が拷問を受けて死にかけているのを助けようとしたと証言したことなどで疑問視されていた。パイヴァ氏の遺族も「40年ほど前からその真相については聞かされている」とかねてから語っていた。