2月9日は、ブラジルが世界に輩出した大女優、カルメン・ミランダの生誕日。2014年の今年で彼女は生誕105年を迎えた。
カルメン・ミランダは1909年、ポルトガルで生まれ、その翌年、父父親の仕事の関係でリオに移住した。
24歳だった1934年、リオのラジオ局と歌手専属契約を交して歌手活動を本格化させる一方、35年に「アロー・アロー・ブラジル」「エストゥダンテス」などの映画に出演し、女優として注目されはじめる。1939年の映画「バナナ・ダ・テラ」では、今日までブラジル音楽のスタンダードになっている「オ・キ・エ・キ・ア・バイアーナ・テン」を歌っている。
1939年、ブロードウェイの劇場主のリー・シューバートはリオで見たカルメンのショーが気にいり、彼女をバックバンドごと契約。カルメンは英語を満足に話せないまま渡米し、そのまま活動拠点をアメリカに移すこととなる。
だが、当時ミュージカル大全盛のアメリカの映画界でカルメンは大いに重宝されることとなる。1940年に出演した「ダウン・アルゼンチン・ウェイ」での演技が絶賛されると、カルメンは「ブラジルの爆弾(ブラジリアン・ボムシェル)」のキャッチフレーズで売り出されはじめ、そこからヒット作を連発する。
だが、当時のブラジルでは、カルメンの売り出しイメージが「南米人をアメリカ人の偏見でステレオタイプにはめこんで売り出している」と批判され、反感が強かった。そのため、カルメンが凱旋帰国コンサートを行なっても罵声を浴びせる観客が多く、それがカルメンを傷つけ、ブラジルでの活動はほとんどなくなっていく。
その一方、カルメンのアメリカでの人気は絶頂にまで高まって行き、最高傑作ともいわれる映画「ザ・ギャングス・オール・ヒア」で彼女の生涯のトレードマークともなる果物を盛った「フルーツ・ハット」を披露した1943年には、ハリウッドで最も稼ぐスターにまでなっていた。
だが、ミュージカルが斜陽となりはじめる1945年あたりからカルメン人気は勢いを失い、1955年、心臓発作を起こしたカルメンは46年の短い生涯を閉じた。
以後、カルメンはブラジルでもカエターノ・ヴェローゾやネイ・マトグロッソのカバーなどにより再評価が進み、今では「ブラジルのハリウッド女優の先駆」として評価されている。
また、カルメンの代名詞となったフルーツ・ハットは「1940年代の代表的ファッション」として、今日でもファッション界の語り草のひとつとなっている。