なぜリベイラ河沿岸では戦中戦後、日本人迫害が激化しなかったのか――。サントスからは4千人が強制退去させられ、海岸沿いのイグアッペ、レジストロも実際に追い立ての検討がされた。でも、追い出すどころかレジストロを市として独立させた。当時の枢軸国移民排斥の機運からすれば、これは大きな謎だ。それへの一つの答えが百周年の機に、ブラジル人の側から公表されていた。
有名ジャーナリストのルシアノ・マルチンス・コスタはレジストロ出身で「事実上、日系コロニアの中で育った」と自認する経歴を持つ。ラジオ・クルツーラの番組「オブセルバトーリオ・ダ・インプレンサ」の司会者として知られ、ブラジル・エコノミコ紙にもコラムを書いている。
彼が09年10月26日に百周年評価シンポ「百周年とメディア」編で驚くべき打ち明け話をした。その内容をポ語版百年史『Centenario :Contoribuicao da Imigracao Japonesa para o Brasil Moderno e Multicultural』(10年、百周年記念協会93~95頁)から抜粋する。
父方の祖父は、リベイラ沿岸に入植した最初のブラジル人農場主の一人で、日本移民家族をカマラーダとして使っていた。母はユダヤ人移民の孫で、早いときに父を失った。母方の祖母は4人の子供を抱えて生活に困り、家族丸ごとある日本人家族の〃養子〃のようになったと生い立ちを紹介した。
叔父ベンジャミンは日系人と結婚したので姪はみな日系人で、「あの頃、町で一番の器量よしといわれた」と振り返る。母は日本人の学校で教育を受けた。「だから今でも(日系の)〃オバアチャン〃と同じ喋り方をするので、私たちはよくその訛りをからかう」と愛情を込めた笑顔を浮かべた。
「僕は子供の頃レジストロベースボールクラブで野球をし、長髪にしていたので〃ジアーボ・ロイロ(金髪の悪魔)〃と呼ばれ、聖南西大会にも出場した。植松テレーザ先生は小学校時代の恩師であり、今の私は彼女に負う部分が多い。特にポ語だ」と有名ジャーナリストは告白する。
「90歳になったばかりの母と話していて、かつて一度も語ったことのない歴史を話しだしたので驚いた。戦中戦後にDOPS(政治警察)から日本人のコミュニティ指導者を密告するように強要されていたというんだ」。
マルチンスは以前から、どうして1945―46年に日本人迫害がリベイラ沿岸地方で起きなかったのか興味を持っていた。それを知っていたのだろう、母は突然「戦争中にジャラカチアーまでは日本人拘束は起きたが、なぜジュキア、レジストロではなかったかといえば、私たちがそうさせなかったからよ」と告白した。
「いったい、どうやって?」と息子が問うと、母は45年にDOPSから呼ばれて日本語通訳として働くよう強要された過去を初めて明かした。
予期していた当時の日系コロニア指導者らは、母に「誰がリーダーかを隠してほしい」と頼み込んでいた。戦時中のDOPSは日系社会で目立つ存在の指導者、インテリ、企業家らを片っ端から捕まえて拘束していたからだ。
「母は言った。『私の仕事はこの人たちを守ることだった』と。例えばイデリバ(コムニダーデ指導者)、岡本(寅蔵)、シロタ(同胞社会の知識人)らだ。このことを母は50年間もずっと胸にしまっていた。07年に初めて私に語った」。
イデイバとは「出利葉政次(まさじ)」のことだろう。『二十周年記念写真帳』(1933年、安中末次郎撮影、37頁)によれば福岡県浮羽郡出身で、1914(大正3)年5月に渡伯し、モジアナ線でコロノをしたあと、1917(大正6)年10月にレジストロに入植した。最初は米作をしたが1924(大正13)年に市街地で商業をはじめ、1933年時点では「伯邦人間第1位の商店」といわれる成功者になっていた人物だ。
13年11月、サンパウロ州文書館(APESP)のDOPSデータベースを検索してみたが、IDERIBA名の調書は確かに1件も見当たらなかった。(つづく、深沢正雪記者)