有名ジャーナリストのルシアノ・マルチンスは、「当時のDOPS責任者は父の友人で、我々家族とつき合いがあった。『母と一緒にその友人をごまかしていた』って父も言っていた。沢山の日本語の書類を検査しながら、母はきわどい内容の文面があると『この部分は意味が分からないわ』と。こうして45年から46年末まで、リベイラ河沿岸のコムニダーデ指導者はほとんど捕まらなかった。僕もあの頃、実に不思議に思っていた。だって毎日たくさんの日本人セニョール、セニョーラがうちに通って来るから。この友情は実に長い間、続いている」と振りかえる。
マルチンスはレジストロ文協が主催した日本移民百周年記念行事の開幕講演を07年にした。その時、シロタ家の子孫から「あなたの母があの難しい時代に守ってくれたということを、父は日記に書き残している」と伝えられたという。
マルチンスは「どうしてこんなに長い間、隠していたの?」と母に聞いた。すると母は「だって私はブラジレイラよ。あの頃、ブラジル政府は日本人を敵だと認識していた。でも彼らは私の友達だった。事実上、日本人コロニアで生きていたんだから。あの頃(まだ30歳未満だった)夫に相談したら、『戦争は過ぎ去っても友人は残る』といった。そして『時の政府は必ずしも、その国を代表しているとは限らない』とも。『僕たちは自分たちのことは自分で考えなきゃいけない。彼ら(日本人)が僕たちの友人なら、彼らはブラジル人の友人だ』という夫の言葉に従い、母はブラジル政府が期待する仕事をわざとしないリスクを犯した」と述懐した。
もしDOPSの命令に従っていたら「どうなっていたと思う?」と母に尋ねると、「もし友人の家族の親が監獄に送られたなら、私はそれから一日たりとも安眠できなかったでしょう。絶対に」と明言した。
さらに「人類が戦争を発明したおかげで、女は夫や息子の死を泣くことを宿命づけられたのよ。あの戦争は世界の反対側で起こっていて、それに、ほとんど終わりかけていた。戦争に協力して誰かを迫害することを手伝う意味など、まったく見いだせなかったわ」と語ったという。
これはユダヤ系子孫だからこそ到達できた境地、平和を希求する達観だろうか。おかげで日本移民は戦中戦後の迫害を逃れることができた。最も古い移住地ゆえの貴重な友情のなせる奇跡だった。
「僕らはこの逸話を重要な家族の歴史として残そうと思っているが、母にはそんな感覚はない。『だってもし逆の立場でも同じことになっていたでしょう』と」。
これは長い歴史の間に迫害されてきたユダヤ人と、それを助けた杉原千畝などの日本人外交官の関係を彷彿とさせる言葉だ。杉原の話は当時、ブラジルには伝わっていなかった。でもどこか通じるものがある。
マルチンスは「ブラジルは多人種国家であり、うちの親族はまさにその典型だ。うちでは、僕がなにかふざけると母は『バカヤロー』と日本語で言い、何か危険なことがあると『アブナイヨ』と叫ぶ。家族の集まりのときに記念撮影すると、いろんな人種がいて、まるで国連の会議のようだと思う。多人種という特徴は、日本移民の子孫が混血してきたからであり、この地方の良例となっている」と語った。
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――時は流れて2003年、桂入植90周年ではイグアッペ市のサンバ学校インペリオ・ド・ロシオ校が「ブラジル製の酒を飲みにおいで(中略)ジポヴラの桂はブラジル最初の入植地」との歌詞で節目を祝った。テーマは《アリガト、移民90周年の感謝の言葉》で「300人が7隊に分かれてにぎやかに行進した」と『Tribuna de Iguape』紙3月号には報じられた。戦中の新聞を賑わした「ペリーゴ・アマレーロ」(危険な黄色人種)という単語は、今では死語になった。
移民百周年の前後に、ようやく歴史の闇に陽が当り始めた。戦前戦中の苦い経験を口に出せるようになるまで、本間剛夫のような日本人にとっても、マルチンスの母のような地元ブラジル人にとっても、長く、辛い沈黙の時間が必要だった。(つづく、深沢正雪記者)