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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦後編◇ (126)=共存共栄精神の源流を辿る=渋沢が思い描く本来の移住

ニッケイ新聞 2014年2月15日
渋沢敬三(『南米通信』308頁)

渋沢敬三(『南米通信』308頁)

イグアッペ植民地を創立した伯剌西爾拓殖株式会社、その創立委員長を務めた渋沢栄一(青淵、せいえん)の孫敬三が1957年9月4日、忙しい日程を割いて桂植民地を訪れていた。「外務省顧問・大使」という肩書で、2カ月間の南米視察旅行の途中にたち寄った。その案内をしたのが当時郡会議員だった柳沢ジョアキンだ。

柳沢家のピンガ蒸溜施設を見た後、《更に上がったところが桂の中心地で小さな公会堂もあり近辺の方々がより集まって紅茶とビスケットで心からの歓迎をして下さりうれしかった。老人連は青淵のことを少しは覚えていたが、その時分から現代までが一足飛びに来てしまった如くその間の歴史は寧ろ無変化の表情で、まったく大正初期の感じをつめ込んだ缶詰をあけたような気がした》(『南米通信』渋沢敬三、角川書店、58年、128頁)との言い回しで違和感を表現している。

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イグアッペ貝塚の山頂で。中央背広が渋沢敬三(『南米通信』125頁)

イグアッペ貝塚の山頂で。中央背広が渋沢敬三(『南米通信』125頁)

渋沢栄一史料館(東京)は08年に移民百周年を記念して、渋沢とブラジル移民の関係を展示した企画展を実施した。史料館便り『青淵』08年10月号には、次の興味深い話が掲載された。

渋沢栄一が大事にしてきた言葉に「言忠信にして行篤敬ならば蛮貊(ばんぱく)の邦といえども行われん」という一節がある。長男の篤二、嫡孫の敬三などの名の由来にもなっており、彼の指針となる言葉であった。

この言葉の意味は「その言を忠信にし、その行いを篤敬にすれば、つまり言行一如誠実重厚ならば、人も我を信じ、我を敬す。たとえ異邦に行ったとしても、事は妨げなしで行うことができる」というものだ。《海外に向かう移民に対し、渋沢はこの一節を熱心に説き、日本から遠く離れた土地でも敬意を払って誠実に生きることを期待しました》と同館便りにある。移住先の国民との関係を表現した言葉だ。

同館便りは《ブラジルには「ジャポネス・ガランチード(日本人は信頼できる)」という言葉があります。農業を発展させ、真面目に生きてきた日本移民に対する尊称です。ブラジル移民100年を経た今日、渋沢栄一の思い入れはブラジルに根付いた移民たちの人生として実っているのかもしれません》と結んだ。

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第22回では、「満韓政策」にこだわり、米国を刺激することを恐れた小村壽太郎外相が日露戦争後、外交的見地から反対したために、青柳が提案したイグアッペ植民地建設は国策にならなかった経緯を説明した。のちに満州移民、日中戦争、太平洋戦争につながる「満韓政策」を正妻から生まれた〃嫡子〃だとすると、ブラジル植民は妾の腹から生まれた〃庶子〃的な存在として始まったと書いた。

百年後の現在から見てみれば、嫡子と庶子の差は大きかった。元々は共に国権論的な膨張政策の一つとして「日本民族の海外発展」という同じ方向性を持っていたが、1930年前後からまったく別の道を歩み始めた。

結果的に、軍事力を背景にした満州移民は〃鬼っ子〃に化けてしまい、本来あるべき移住は当地でこそ実行された。〃庶子〃たるブラジル植民は、微妙な外交関係を常に配慮せねばならず、協調的な移住政策、地元との共存共栄が一貫して意識され、青淵らの期待したような「行篤敬」な発展を果たしたのは皮肉だ。

しかし、終戦直後のドタバタで拓務省資料が焼かれてしまい、当地移住の意義は満州移民と混同されたまま、近代日本史の中では「羹に懲りてなますを吹く」ごとく忘れ去られてしまった…。

敬三が〃大正初期の感じをつめ込んだ缶詰〃と表現した行間には、祖父らの篤い志の40年後の結果である桂在住者に対する、そんな違和感が漂っているようにみえる。

戦争で深く傷ついた日本は、多くを反省する中で良い部分まで一緒に忘れてしまった。本来の移住の成果が、百年後のレジストロ地方を始め、ブラジル移住全体に表れていることを知れば、あの世の青淵や桂公もさぞや喜ぶに違いない。(つづく、深沢正雪記者)