モライス著作が起爆剤となり、日本移民百周年の機運がこの方向性に油を注いだ形になった。
世紀の祝典を6月に祝う直前の08年4月、USP(サンパウロ大学)の日系研究者タケウチ・ユミ・マルシアは『O Perigo Amarelo( 黄禍論)』(ポ語、ウマニッタス出版)を出版していた。
政治社会警察の資料を綿密に調べ、ヴァルガス独裁政権の日本移民と子孫への差別的抑圧の一端を初めて明らかにした。これにより学術界で注目を浴び始め、本格的探求の方向性が開かれた。
機を同じくして08年4月20日付けフォーリャ・デ・サンパウロ紙は、ジャーナリストのマチナス・スズキJRによる日本移民への人種差別を振り返る記事(www1.folha.uol.com.br/fsp/mais/fs2004200804.htm)を掲載した。実は移民百周年は、歴史をいろいろな角度から振り返る機会だった。
これらに触発され、リオデジャネイロ州立大学ブラジル日本文化研究所によりドキュメンタリー映画『Perigo Amarelo – o lado B da imigracao japonesa(黄禍論- 日本移民の裏面)』(2011年、デビジ・レアル、マウロ・ジル監督、50分)を制作した。二世のアリタ・マサルの証言を映し、リオで戦時中に差別された経験から「我々は日本人の子供だが、ブラジルで生まれたブラジル人だ。この国でこのようなことが二度とあってはいけない」という血のにじむような証言を引き出した。
同映画の最終部ではゼリア・ブリット・デモルチニUSP教授が「ブラジル政府は戦争中の日本人差別に関して一度も謝罪したことはない。おそらく最も謝罪的な行為であったのは、日本移民百周年の機会に実に積極的な協力をしたことではないか。政府だけでなく、国民全体がそれを意識していたかのように思えた」と語っている。
これらに共通しているのは、日系社会のコンセンサスを受けて運動として広がるのでなく、ほぼ同時多発的に独自に動いている点だ。
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ジウマ大統領の肝いりで始まった「真相究明委員会」下部組織、サンパウロ州小委員会のアドリアノ・ジョーゴ委員長(州議、PT、労働者党)と、奥原は何度も打ち合わせをして議題として取り上げるように働きかけてきた。
同委員会が設定する調査範囲は1946年から88年だが、軍事独裁政権による被害事件が中心だった。奥原は、勝ち負けが起きた原因はヴァルガス独裁政権の人権侵害であり、その続きとして終戦直後の不当な日本移民取締りが行われた訳だから、これも対象になりえる―と考えた。
まず同小委員会で『闇の一日』試写会、日高徳一の非公式公聴会を行った。同委員会はPT系の人物が中心になっているため、右派や中道派政党に多い日系議員は協力を申し出ることはなかった。日系政治家から議員割り当て金などで支援して貰っているブラジル日本文化福祉協会や移民史料館関係者からも当時は距離をおかれる状態だった。「あまりに委員会の腰が重いので9月に諦めようかとさえ思った」と振りかえる。
でもジョーゴ委員長は「正式な公聴会を開くべきだ」と決断し、奥原が真相究明委員会の元委員長、ローザ・カルドーゾ弁護士と話す機会を作った。同弁護士は奥原の話に強く感銘を受け、サンパウロ州小委員会がこの件に関する公聴会を行うことを許可し、特別に自ら出席することを決めた。(つづく、深沢正雪記者)