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県連ふるさと巡り=開拓古戦場に思い馳せる=パライバ平野と聖北海岸=(2)=タウバテ=1270域誇った鐘ヶ江農場=出光の養子?小田家の秘話

ニッケイ新聞 2014年3月28日
小田二三男さん

小田二三男さん

タウバテ文協会館の土地を寄付した小田二三男さん(88、二世)は現顧問として、ふるさと巡り一行の歓迎会に際し、「こんなにたくさんのお客さんを迎えたのは初めて」と威勢よく乾杯の音頭をとった。

二三男さんはノロエステ線プロミッソン生まれで、3歳の時、小学校で日本語を勉強するために文化植民地に移り、一年間学んだ。北米カリフォルニア州の排日運動を嫌い、日本人クリスチャンの一団が1926年に移り住んだところだ。

父の小田政美さんは福岡県出身で、「貧乏して栄養失調になり、50代で早死にした」という。タバコを吸い続けて肺ガンとなり、戦後カンポスの療養所で亡くなった。

勝ち負け抗争の頃、「私はまだ20歳ぐらい。父はどちらにも付かず、パラグアス・パウリスタに家族で逃げていた」と思い出す。その後、タウバテにあった鐘ヶ江農場で2年間働き、お金を貯めて独立した。鐘ヶ江久之助は同じ福岡県(浮羽郡)の出身者であり、北米で「ポテト王」といわれた牛島謹爾(福岡県久留米出身)の雑誌記事を読んで、「俺は南米で牛島に負けない仕事をする」と渡伯した。トレメンベー地区の200アルケールの土地から始まった「ファゼンダ・リオ・ベルジ」は、「鐘ヶ江農場」として知られるようになり、ブラジル有数の機械化農業を実践し、一時期は1270アルケールの大農場所有者となった。

『曠野の星』(53年6月、19号、51頁)によれば水田250アルケールから籾2万俵収穫、裏作にジャガイモ2万俵、トマト3万箱を生産したというからパライバ平野随一の規模だ。農場内の車道総延長は40キロもあったというから〃鐘ヶ江王国〃を築いていた。

同文協50年史『盆栽』には《そこで働いた半数の日本移民は内陸部から移ってきたもので、そこで小作人として働き、鐘ヶ江から農場運営を学び、2年ほどして資金を貯めて独立していった。多くがここで小農から始めて稲作、トマト、ジャガイモで富を築いた》(8頁)とある。《鐘ヶ江農場の存在こそはコロニアの一粒の麦であった》(『富流原』85頁)とされ、小田家はその一つだった。

独立農の苗床のような役割を果たし鐘ヶ江農場だったが、小田さんは「でもいろいろな法律問題が起きて、インフレで財政的につまづき、今ではほとんどなくなってしまった」と残念そうにいう。「子孫がリンコンで500アルケールほどの農場をまだ経営していると聞いています」とも。――まさに開拓の古戦場だ。

父の時代のことを語る小田さんの目にはしだいに涙がたまりはじめ、必死にそれをこらえている様子が伺えた。

「今までほとんど言ったことはないのですが、実は父は出光佐三の養子だったんです」と驚くべき証言をした。出光佐三(さぞう、福島県宗像郡、1885年―1981年)といえば、石油元売り会社・出光興産創業者で、最近の歴史経済小説『海賊とよばれた男』(百田尚樹、講談社、12年)のモデルともなり、再び脚光を浴びている人物だ。これが証明されれば、コロニア秘話となるだろう。さっそく日本の出光興産本社のお客様センターに問い合わせてみた。(つづく、深沢正雪記者)