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県連ふるさと巡り=開拓古戦場に思い馳せる=パライバ平野と聖北海岸=(4)=タウバテ=杉村公使歓迎した縁の地=〃稲作王〃西原清東も入植

ニッケイ新聞 2014年4月1日

杉村濬公使(『物故者列伝』、日本移民50年祭委員会、1958年より)

杉村濬公使(『物故者列伝』、日本移民50年祭委員会、1958年より)

笠戸丸以前、1905年に着任した杉村濬(ふかし)公使(三代目)がサンパウロ州の珈琲耕地視察の帰途、タウバテ駅に夜10時半に汽車がとまった。《夜間にもかかわらず市民が本官を歓迎せしごときは、もっとも意外の優遇とぞんじ候》と感激の面持ちで小村寿太郎外務大臣に書き送っている(『富流原』84頁)。

そんな日本移民に所縁のある場所であり、この良印象が「日本移民に適地である」と判断する材料の一つになったとも言われる。

杉村公使名で頒布された「移民送り出しの適地である」と薦めた報告書(1905年6月)が、ブラジル移民の起爆剤だった。それを読んだ水野龍が翌1906年に来伯した船で、チリに行くはずだった鈴木貞次郎青年に出会い、同行するよう口説いてサンパウロ州のコーヒー農場で労働体験をさせ〃実験台〃にした。その経験から「間違いない」となり、笠戸丸移民につながる流れだ。

『富流原』(80頁)によれば1830~50年頃のコーヒー栽培はタウバテ地方を中心としたパライバ平野だった。つまりサンパウロ州のコーヒー産業はこの一帯から始まり、1850年代にはカンピーナスに移り、さらにテーラ・ロッシャのモジアナ線へと1870年代には中心が移動していった(『四十年史』295頁)。略奪式農業の時代であり、いかなる妖土でも十数年で生産性は落ちていった。

1850年の奴隷輸入禁止後、コーヒー耕地労働者としてイタリア移民などが大量導入されたが、奴隷同然の待遇が問題となり、本国政府が渡航費補助を打ち切るに至って、日本移民を入れる流れになる。だから初期移民は大半がモジアナ線周辺に入り、その後、笠戸丸移民当時に建設中だったノロエステ線方面へ移っていった。

その杉村報告書を見た西原清東(さいばら・せいとう)が北米から、タウバテの米処であるトレメンベー地帯へ1917年に転住して米作りに着手した。これが日本人タウバテ入植の嚆矢のようだ(『盆栽』8頁)。

西原は高知県人で、板垣退助の立志学舎で学び、1898(明治31)年に史上最年少国会議員、1899年に同志社社長となった輝かしい経歴を捨てて1903年に渡米し、テキサスで大農場を開いて〃ライス・キング〃(稲作王)と呼ばれた人物だ。彼が《浸水のために全滅の悲嘆にくれたが、〃この平野こそが米作に最高の地〃と予言した。いま州最大の米作地となっているのを知るとき、彼の先見の明は忘れられない》(『富流源』1969年、中村東民、84頁)とある。

ロバット博物館でサッシの寸劇を観る一行

ロバット博物館でサッシの寸劇を観る一行

14日午後、一行は市内のモンテイロ・ロバット博物館に立ち寄った。同氏は裕福な家に生まれて資産を受け継ぎ、幼年期をこの家で過ごした。

《タウバテはバンデイランテス時代の宿場であり、植民地時代のリオ、サンパウロ市への交通要衝の駅亭町で、往時からバライバ平原における中心地。セントラル鉄道が開通してからは一層、栄えてきた》(『富流原』81頁)という町だ。戦前を代表する外交官、知識人の一人ロバットを生んだ背景には、そのような経済環境や歴史があった。

同地独自の一本足の黒人妖怪サッシ・ペレレを描いた『オ・サッシ』や『ピカ・パウ・アマレーロ農場』などの童話でも知られ、ヴァルガス独裁政権のブラジル独自の精神性発揚を高々と謳った時代を代表する作家だ。

タウバテ近隣の町々がその作品世界にはモデルとして散りばめられており、パライバ平野をブラジル文学史の舞台に組み込んだ作家といえる。一行はサッシの寸劇を観て、タウバテ文協に向かった。(つづく、深沢正雪記者、訂正=小田二三男さんの父の名に間違いがあった。正しくは「政實」)