ニッケイ新聞 2014年4月2日
14日午後、タウバテ文協の夕食交流会の前に一行は、市内にある陸軍精鋭が集まる航空部隊基地を2時間ほどかけて見て回った。
同地文協の元会長、田尻清隆さん(85、鹿児島)は会館の壁に貼られた日系将校の展示を指さしながら、「陸軍ヘリコプター部隊には小原彰陸軍少将ら日系将校がいたので、文協とは関係が深い」と説明していた。
小原少将(現在は予備)は同基地の司令官にまでなった人物であり、他にも清田一大佐、木原義一アルマンド大佐ら名だたる日系将官がここに在籍していた。
一行の説明役を買ったロナルド・メデイロス・ロペス中佐によれば、陸軍航空部隊の起源は三国同盟戦争(通称「パラグアイ戦争」、1864―1870年)時に有人偵察気球を330メートルの高さまで飛ばしたこと。南米初の軍用航空作戦といわれ、当時の陸軍元帥ルイス・アルヴェス・デ・リマ(通称ドゥッケ・デ・カシアス)が「航空部隊の祖」を兼ねている。
最初の戦死者が出たのはサンタカタリーナ州で起きた「コンテスタードの乱」の時だ。反乱軍鎮圧に向かった陸軍のリカルド・キルキ中尉は、当時最新兵器だった飛行機を現地で飛ばしたが、1915年1月に落下事故で死亡した。「当時の機体は今と比べようない脆弱なもの。その勇気は称賛に値する。だから彼は陸軍航空部隊のパトローノ(守護聖人)だ」。ロペス中佐は、基地本部前に設置されたその胸像に敬礼をした後、そう付け加えた。
1941年1月に政府は空軍を創設し、陸軍の航空部隊の設備、施設を丸ごと移管した。しかし1984年に起きた英亜間のマルヴィーリャス戦争で、英国軍のヘリコプター作戦が勝利の決め手の一つとなったのをみて、飛行機では離着陸できない場所での行動に対する注目が高まった。
そこで86年にヘリコプターによる航空部隊が陸軍内に再結成され、リオとサンパウロ市の中間点に位置する戦略的要衝であるこの地に、89年に基地が建設された。「英米仏と同様に近代化されている。南半球最大のヘリコプター部隊だ」とロベス中佐は胸を張る。
同航空部隊には仏ユーロコプター社製EC725(国内で組み立て)など80基のヘリが所属する。新鋭のEC725はいっぺんに30人(小隊)が搭乗できる大型機だ。同基地だけで54基、他にアマゾナス州マナウス基地にも米国製の最新鋭機ブラックホークを始め、国内各地に多くが展開しているという。
一昨年にリオ市のファベーラ・アレモンを軍と州警の共同作戦で占拠した時も、同基地から出動したヘリがいた。「足元に鉄板が引かれ、防弾になっている」と運転士は説明する。ロペス中佐は「W杯の時も警備で動員され、我々がスタジアム上を飛ぶことは間違いない」と胸を張り、「小原少将を知っているか」と問うと、「彼とは一緒に働いたよ」と懐かしそうな表情を浮かべた。
実は同中佐はタウバテ文協の昔からの会員で、機関紙『盆栽』の執筆者でもある。日系団体と一般社会が力を合わせて共存共栄する精神が、ここにも息づいている。
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夕食交流会の会場となったタウバテ文協会館の壁には、田尻清隆さんが会長時代の2003年に、姉妹都市の山形県米沢市から一体の古い市松人形が贈られた時の新聞記事が貼られていた。
この人形はなんと1927(昭和2)年に、米国の子供たちから日本の小学校に友好の証として贈られた「青い目の人形」1万2739体の返礼として、同年に急きょ制作して日本側から送り返された「返礼人形」58体の一つだった。日米の歴史の一幕がタウバテにあった。(つづく、深沢正雪記者)