ニッケイ新聞 2014年4月3日
03年に山形県米沢市から姉妹都市タウバテに寄付された「山形千歳」と呼ばれる市松人形は、1927年に米国から日本の小学校に贈られた「青い目の人形」への返礼として名工に制作を依頼したものだった。当時350円(教師の月給が40円)と高価で、つぶらな大きな瞳に真っ黒な黒髪、気品が漂う笑顔を浮かべている80センチの和装人形だ。
ところが太平洋戦争中、青い目の人形は日本で「スパイ人形」などと言われて多くが処分された。戦後、米国から返礼人形が山形に戻されたらしく、それが03年に姉妹都市友好使節団(木原義一団長)が米沢市を訪れた時、七段の雛人形と共に贈呈された。
その時は詳しい説明がなく、田尻会長(当時)は「古くて気持ちが悪い人形だな」という印象だったが、箱に同封されていた1927年10月21日付地元紙のコピーを見ていわれを知り、貴重なものと分かり、タウバテ市博物館の姉妹都市コーナーに展示してもらったという。「両市の友好のシンボルとして大事にしていきたい」と田尻さんは語っている。
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交流夕食会の後には、同地の若者による海藤三味太鼓グループが、玄人然とした見事な演奏を披露し、一行を驚かせた。
同文協会員は約200家族だが、最盛期の70~80年代には300家族もいた。市内の日系人総数は500家族程度と推測されるという。
同地40年の入江淳さん(84、二世、カフェランジア生まれ)によれば「運動会にも500人は集まり、とても賑やかだ」という。ここに来る以前はパラナ州都クリチーバで家族と農業に従事していたが単身転地した。
入江さんはクリチーバ時代の1950年頃、1年間兵役に服した。「水野龍の息子、龍三郎さんと同じ隊だった。水野龍に会ったことはないが、ちょうど兵役中にブラジルに帰って来て、龍三郎さんが休みを取ってわざわざサンパウロまで迎えに行ったのを覚えているよ」と懐かしそうな表情を浮かべた。
24年間同地在住の久保時雄さん(58、二世)によれば「ヤキソバ祭りを年3回開催し、500食ぐらい売れる。お客さんの半分ぐらいはブラジル人ですよ。この会館もヤキソバと寄付で建てました」と振り返った。
同地の戦後移住者について元同文協会長の安藤光明さん(72、秋田)に尋ねると、「僕は工業移住で、1963年渡伯。工業移住者だけで30人以上と結構まとまった数が入っている。主にメカニカ・ペザーダ社やダルマ電器、ダイドー、天童木工所、ノーテルス(製材)かな。だから、工業移住者協会の本部がサンパウロ市にできたすぐ後に、ここに最初の支部ができた」と思い出す。
『盆栽』(9頁)によれば、ヴァルガス独裁政権は1941年にリオ=サンパウロ市間の車道建設を企画したが第2次大戦激化で中止された。1948年にヅットラ大統領が工事を再開させ、51年には単線開通、軍事政権中の68年にコスタ・エ・シルバ大統領が複線道路開通式を行なった。
この流れでセントラル鉄道は寂れ、車の時代となり、南米一の交通量を誇る大国道となった。交通手段は変わっても、要衝地たるタウバテの役割に変化はなく、多数の企業が工場を設置し、人口が急増して町中で商店を経営する移民も多くなった。コチア産業組合や南伯農協の単協、タウバテ農協などが誕生し、1962年頃には農産展も盛大に開かれた。
安藤さんは「海藤司さんも工業移住でノーテルス社に入った。その当時は趣味で芸能をやっていたが、今は本格化して教え子がたくさんいる。タウバテの芸能を一家で支えている」と舞台を指さした。
そんな太鼓三味グループの演奏にのせて、最後に炭坑節を地元婦人部や一行の有志が仲良く輪になって踊り、全員で「ふるさと」を合唱し、別れを惜しみながら午後10時にホテルへ戻った。(つづく、深沢正雪記者)