ニッケイ新聞 2014年4月9日
日本から米作専門技師を呼び、《日本式水田で日本式の一等米を生産した》という。カンピーナス東山農場の山本喜誉司がこちらの農場長も兼務し、付近の農地を買い集め、一時は2500アルケールを誇った(『富流原94頁』)。
安田良一が支配人をしたサプカイア耕地はコーヒー、牧牛、米作などを手広く事業を展開して成功したが、大戦中に敵性資産として処分され、残留した日本人はわずかとなったという。首都リオに近いこともあって、その存在は目立っていたに違いない。
ネルソンさんは「両親は家庭内では子供とポ語で会話してブラジル式に育て、全員を大学に行かせた。私はタウバテ医科大学を卒業した最初の二世です」と安田式教育の一端を披露した。だから戦前二世だがまったく日本語をしゃべらない。
安田良一は妻シヅノさんとの間に2女4男がおり、上から一枝(カズエ)、二枝(ふたえ)エリザ、ファビオ良治(りょうじ、長男、元商工大臣)、エドゥアルド良明(りょうめい、サンパウロ州自然環境局長)、ネルソン静雄(医師)、レナト幸男(USP歯科教授)だという。まさにブラジルに溶け込んでいった先駆移民の家系だ。
会館建設時のピンダ文協会長の渡辺保国さんは《安田さんがピンダに落ち着かれてからピンダの日本人の歴史が始まっている~》(『富流原』122頁)と書いている。そして《一九六一年六月大先輩の安田良一氏が逝去されたのであるが、その葬送はピンダ始まって以来のもので、自宅から中央寺院まで三キロの道路が車の列で埋まった位だから相当の会葬者数であった》(同123頁)と書くほどだった。
一行の代田正二さん(88、長野)はつかつかとネルソンさんに近寄って、ファビオさんの思い出話を始めた。「コチア産組時代にファビオを知っていた。どこか世俗を超越したような雰囲気を持っていた。彼の弟が目の前にいると知って驚いた」と語った。
ファビオは1955年にコチア産業組合理事となり、1960年には専務理事、66年に中央会制へ改組するとともに中央会専務理事となって活躍した。その当時のコチアの存在感と強さから、1969年4月にマルフ市長に乞われて〃サンパウロ市の台所〃を取り仕切るサンパウロ市配給局長、同年10月にはメジン大統領により商工大臣(日系初の大臣、当時47歳)に指名された。
ネルソンさんの娘ヨシエさん(47、三世)は「1992年に家族で訪日し、鹿児島の安田家とも交流を復活させました。おじいちゃんとは別のカミーニョ(道)を日本で歩んでいるのを見て来た」という。
安田家はタウバテ市内に診療所「クリニカ・ヤスダ」を構え、ネルソンさんの妻、ヨシエさんは共に歯科医で一緒に働いているという。ヨシエさんは「百周年の時も父が顕彰され、とてもうれしかった」と爽やかな笑顔を浮かべた。
最後に日本語学校代表者からビンゴへの協力のお礼が延べられ、全員で「ふるさと」を合唱し、別れを惜しみながら会場を後にした。
一行の八木静代さん(77、兵庫)は、旅行の間ちょっとでも暇があれば司馬遼太郎著『義経』の文庫本を開いて読んでいる歴史好きだ。「神代の時代の先駆者の息子さんが、ああやって出てきてくれると歴史の現場を歩いたような感じがする。自分が一人で歩いてきたのじゃなく、神代からの土台があってこそと実感した」と充実感を噛みしめるように語った。(つづく、深沢正雪記者)