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県連ふるさと巡り=開拓古戦場に思い馳せる=パライバ平野と聖北海岸=(15・終わり)=サンセバスチャン=勝ち負けから逃れ海岸部へ=次のペルー行きで再会約束

ニッケイ新聞 2014年4月16日

永井文子さん

永井文子さん

原発事故で損なわれた故郷に対する、ありがちな感傷的コメントを期待した記者の期待を見事に裏切り、永井文子さんは「私は小さい時に来ているから、何も分からんのよね。息子が日本に働きに行っているから、地震の前に一度遊びにいったらしいけど…」とサバサバした様子をみせた。
1945年から47年の終戦直後にはツッパンにいた。「夫(永井哲夫、福島県富岡出身)が53アルケール棉をやっていた。多い時はカマラーダを30人ぐらい使っていた」と思い出す。「ソグロ(義父)は『日本が負けたはずない』、私の父や夫、隣の人もカデイヤ(留置場)に入れられた。そこに入りきれなくなって、縄で囲った場所に無理矢理囲うようになったとか聞いて、物騒になったようです」と淡々と話す。
だから、日本人がいない場所へわざわざ来たようだ。当地ではバナナ栽培で一旗揚げ、夫と友人でアルゼンチンや欧州に輸出していたという。「この会館作るのに夫は一生懸命にやった。ゲートボールが好きな人で、カンポ(コート)も作った。私は今でもゲートボールやってますよ」と夫との思い出を噛みしめるように語った。
子供移民にとって、ほぼ記憶にない祖国との心理的距離は時間と共に遠ざかり、逆に子孫が根を張ったブラジルとの地縁が強まり、ここが「第2のふるさと」になる――。
最後の別れ際、食事を用意してくれた婦人部のみなさんと抱き合って惜しむ姿も見られた。

参加者の斉藤利治さん(としはる、73、二世バウルー生まれ)は「サンセバスチャンでは地元のみなさんが汗をかいて食事を作ってくれたのがうれしかった。でも、ただ食事を食べに行くだけみたいになったのが残念。もっと交流プログラムを充実させてほしい。ピンダのような日本語学校支援ビンゴみたいのは歓迎だ。他の場所でもやったらよかった」と振りかえった。
参加者の多川富貴子さん(77、三重)=サントアンドレー在住=は「タウバテで久々の人に敢えてホントによかった。故郷の友人に会ったような気分」と喜びつつも、「今回はその土地の先人にお線香をあげる機会が1回もなかったのが残念」と語り、さらに「ピンダがやったように、他の日系団体も10分でいいから最初に歴史を説明してほしかった」と惜しんだ。
今回は初参加組も多く見られた。聖南西イタペーバ在住の田中正さん(ただし、77、佐賀)もそうで「前から参加したかったけど、今回初めて。歳とってから安心して参加できる旅行だね」と感想をのべた。

山口政之さん

山口政之さん

初参加の山口政之さん(89、熊本)=サンパウロ市在住=はブラジル在住がまだ6年目だ。貿易関係の仕事だった関係から、海外在住歴はイタリア20年を初めスウェーデン、スイス、フランスなど長いが、終の棲家はブラジルに決めたという。「飛行機は600回以上乗りました。旅行が好きで、65歳から世界中を飛び回っています」という強者だ。すでにアマゾンやノルデスチも旅行し、「ブラジルは食べ物美味しいし、日本語が通じる」と気に入っている。
生まれは広東省で19歳の時に朝鮮で終戦を迎え、引き揚げて九州大学を卒業してから、世界を股にかけた仕事で飛び回った。妻を亡くし、「今は天蓋孤独の身です。ちょっと寂しいですね」とつぶやく。
叔父がブラジル移民だった関係で13年ほど前に一度会いに来た。以来5回来伯する中で永住を決め、07年から住んでいる。「100年前から日本を飛び出してこちらに住んでいる人は勇気のあった人だと思います」と頷いた。

一行は17日にイーリャ・ベーラを観光した後サンパウロ市に向かい、午後7時にリベルダーデ広場で解散し、早くも次回9月のペルー行きで再会することを約束し合っている人の姿も見られた。(終わり、深沢正雪記者)