ニッケイ新聞 2014年4月23日
ブラジルでのスポーツ実況中継における重要人物の一人に数えられる名物アナウンサー、ルシアーノ・ド・ヴァーレが19日、飛行機の中で心臓発作を起こして急死した。66歳だった。
1947年にサンパウロ州カンピーナスで生まれたルシアーノは、16歳のときラジオ局で、スポーツ・アナウンサーとしてのキャリアをはじめた。その後は、67年にサンパウロのラジオ・ガゼッタを経て、71年にブラジル最大のテレビ局グローボに入社した。そこでは74~82年の3度のサッカー・ワールドカップで実況をつとめ、一躍有名になった。
だが、ルシアーノのスポーツへの愛情はサッカーだけに止まらず、ブラジルにより多くのスポーツが存在することを伝えた。70年代前半にはグローボでF1の実況も行い、世界王者のエメルソン・フィッチパルディやジョゼ・カルロス・パッセなどのブラジル人ドライバーの活躍も積極的に伝えた。
82年に老舗テレビ局のレコルデに移籍。そこで、まだ発展途上にあったブラジルの男子バレー代表が圧倒的な強豪だったソ連代表に勝った、83年7月の試合の実況をつとめた。そのときの熱意溢れる語り口は、名前を文字って「ルシアーノ・ド・ヴォレイ(バレーのポルトガル語)」とも呼ばれた。
ルシアーノは83年後半にバンデイランテス局に移籍。同局は現在に至るまでスポーツ中継で名高いが、彼は2003~06年の一時的なレコルデ復帰期間を除き、同局の中心として活躍。在籍中の全てのサッカー・ワールドカップの実況を行っただけでなく、インディ500やNBAといったアメリカのスポーツも紹介。さらに、ブラジル国内のスポーツでも、オルテンシアとパウラを擁し、96年のアトランタ五輪で銅メダルに輝いた女子バスケットボール代表や、ヘビー級ボクサーのマギラを積極的に紹介した。
2012年に脳梗塞で倒れて以来、仕事量を抑えながら活動を続け、亡くなった19日も、ミナス・ジェライス州ウベルランジアで翌日行われるサッカー全国選手権開幕戦、アトレチコ・ミネイロ対コリンチャンス戦を実況する予定だったが、そこへの移動の最中に飛行機内で体調が悪化しての死だった。
このルシアーノの死に対し、ブラジルにおけるサッカー中継の第一人者として有名なアナウンサー、グローボ局のガルヴォン・ブエノは、「共に成長してきたライバルだった。彼が隣の実況ブースにいない状況なんて考えられない。ブラジルの報道界、テレビ界は重要な存在を失った」と語っている。
また、バンデイランテス局の名物ニュースキャスターで、同局にルシアーノの紹介でスポーツ・アナウンサーとして入局した経緯もあったジョゼ・ルイス・ダテナは、「彼は自分にとっての語り口の手本だった。アイルトン・セナが亡くなったときと同じくらいショックだ」と語っている。(20日付フォーリャ紙などより)