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コックピットで真剣まなざしをするセナ。1993年3月28日のブラジルGP(サンパウロ)で。 (Foto: Paulo Pinto/ Fotos Públicas (28/03/1993) )

アイルトン・セナ20回忌=改めて振り返られる軌跡=激動の時代のブラジルの英雄

5月1日は、ブラジルが生んだ伝説のF1レーサー、アイルトン・セナがイタリアのサンマリノGPで事故死して20回忌となる。この日にちなみ、伯字紙はのきなみ大きな記事を組んでいる。

グローボ紙のサイト「G1」とエスタード紙サイトは4月下旬よりセナ特別ページを組んで、セナの軌跡を追っている。エスタード紙サイトに至っては、画面をサーキットに見立て、車の走行と同時に年表が出てくる凝りようだ。

その年表に従うと、セナは1960年にサンパウロ市北部サンターナで生まれ、4歳のときに与えられたカートの運転に夢中になり、18歳でカートの国内王者になるなど、早熟ぶりを示した。83年にはF3に参加して圧倒的な勝率を記録し、翌84年にF1に昇格した。

セナのブラジルでの知名度が一気に上がったのは、86年6月22日のアメリカGPだった。この日セナは同GPで優勝を決めたが、この前日はサッカーブラジル代表がフランス代表に敗れ、国民が意気消沈した翌日だった。セナはブラジルの小旗を愛車から振って声援に応え、話題を呼んだ。

セナの全盛期は88年に名門マクラーレンに移籍したときに訪れた。この年を含め、90、91年とセナは3度の年間世界王者に輝いた。また、88、89年にはスピードレーサーの称号を示すポールポジションを全16戦中13戦で記録するなど、圧倒的な速さでファンを魅了した。このレースぶりに世界中のF1ファンが熱狂した。現在唯一のブラジルのF1レーサー、フェリペ・マッサは「フィッティパルディもネルソン・ピケもブラジルの世界王者だったが、セナはF1人気を別次元なものにした」と語っている。日本でもセナは「音速の貴公子」との愛称で親しまれ、今も墓参りをする日本人が絶えない。

さらに91年3月24日には、地元ながらこれまで相性が良くなかったサンパウロ市インテルラゴス・サーキットでのブラジルGPで念願の初優勝も飾った。4月30日付フォーリャ紙は、このときの優勝を伝える過去記事を紙面に織り込んで20回忌に応えている。

だが、94年5月1日、イタリアのサンマリノGPでコーナーを曲がり切れずに壁に激突し、34歳の若さでこの世を去った。ブラジルは国民的英雄となったセナの死を国葬で迎えた。

G1サイトの記事はセナを「民政復帰後も国政が不安定な状況で、サッカーも1970年からW杯優勝のなかった当時のブラジルにおいて、セナこそがブラジル人の気持ちを掌握していた」と称している。