反対側(註=認識派)の日本人が宣伝し、マスコミが「臣道聯盟によって組織され訓練され、また日本の黒竜会との関係のある殺人団体である」と看守らには吹きこまれていた様だ。彼らは始めのうちは用心したらしいが、日本で高等教育をうけた方や各地で大きく事業をしていた方も居られ、他の人達も各々に一家を構えた方が多かった。日常の生活振りで彼等に解ったらしく、信用を得て、責任の有る仕事をまかされる様になった。
我々が来て2週間ばかりした7月25日、3名の方が送られて来て追放組は81名となり、第3回が11月17日に68名来られ、同年12月20日に最後の21名が入所した。都合170名となったのである。佐藤正信氏の記録として残された人名録では、170名中、生存しているのは自分一人である。
世間には、彼等に都合の良い様なつくられた証ししか伝わっていないので、本当のことを書き残す様書いている積もりである。
割り当てられた部屋には、頭数だけ寝台に寝具も揃って居る。それまでのところから見ると、トイレットペーパーの輪を枕にして寝なくても済む。自分の様に6月の決行前、真冬の折14、5日間、毛布一枚で雑木林の中で寝た者から見れば「星付きのホテル」である。
久し振りに寝台で藁布団であるが、枕で浪の音を耳にしながら寝たので、短い時間であったが熟睡する事ができた。
ラッパ
所長が軍警大尉であるゆえ、総て軍隊式で、起床ラッパが鳴り、広場に全員出て、四列縦隊に整列点呼をうける。それから番号のついた囚人服を渡される。自分の番号は627。私服から囚人服に着替えると、全員丸坊主にされ、髪も落とされる。気の毒であったのは、第〇軍司令官の様な美髭をたくわえていた方も落とさねばならなかったことで、その見事な髭がなくなって室にかえって来られると、あの方かと疑いたくなる程であった。昔軍人や警官は髭をつけていたのが解る様な気がした。
次は健康診断、それが終わると仕事場が割り当てられる。以前は強制労働所であったらしいが、我々の居った頃はその様な事はなく、各々の健康状態と年齢によってきまり、年配者は希望した人のみであった。
日が経つにつれて日本人の真面目さを認められ、事務所、病院、在庫品の管理、修理工場などで働く事になった。自分の様にエンシャーダ(鍬)しか芸のないものは、炭焼き、地引き網、マンジヨカ畠、バナナ畠、野菜畠等で働き、島全体にその生産物を補給して、それなりに日本人の腕を見せたものだった。
その中で特に光ったのは、修理工場をまかされた本家政穂さんと山内房俊さんの二人であった。
島に一台しかないトラックが故障し、車庫に止まっている有様で、不自由していた様だった。中央からメカニコが来たそうだが、部品も道具も揃わず、サンパウロでないと手のつけようもないと、そのまま放置されていた。だから、重い物を運ぶ時は、馬車か人力に頼るしかなかったのであった。
二人がそれを解体し、破損部品を取り寄せてもらい、修理し動く様にされた。1946年、我々が島に着いた頃は裏山の貯水池に小型の水力発電所があったが、これも止まっていた。島では修理ができず、ディーゼル発電で刑務所の内外を照らすのみで、島全体が不自由な生活をしていた。だが、これも二人が完全に修復して島全体を明るくしたのである。(つづく)