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島流し物語=監獄島アンシェッタ抑留記=特別寄稿=日高徳一=(13)=あっけない「ジャポネスの勝利」=弁護士による釈放働きかけ

根来良太郎(山村保生さん所蔵)

根来良太郎(山村保生さん所蔵)

 次は泉沢君の出番。先鋒が凄いところを見せたので勢いづいたのか、悠々と現れ、相撲の四股を踏み、柏手を打って、日本語で「サーア来い」と云った。だが相手が出て来ない。いくら待っても現れない。審判が「ジャポネスの勝利」と宣言して終わった。
 先生達の話だと、「あの一撃をうけたら普通の者なら一巻の終わりであったが、獣の様な奴だから気絶した位で済んだのだ」と話して居られた。

釈放運動と聯盟の解散

 人各々思いが異なるので一概には云えないが、國を愛し信じて生きてきたのである。身に覚えのない疑いをかけられ拘引され、拷問や踏絵などにも堪え、信念を曲げなかったばかりに島にまで連れて来られた人達の中には、本人は勿論、留守家族の人達も日が経つに従って、父や兄弟が島流しになる様な大罪を犯したのだと冷たく見られる様になった。そのため弁護士に依頼したり、認識する書類に署名する様な運動が外部から持ちこまれ、島の内でゴタゴタが始まる様になった。その問題は我々には関係のない事であったので、余りくわしくは知らぬが、大体次の様であった。
 2号室は地方の聯盟の主だった人が多く、たとえばアサイの谷田才次郎氏、ルッセリアの河島作藏氏父子3名、ミランドポリスの和気幹治氏達のほか20名程は釈放運動が始まった頃、「祖国を信じているだけの者を島にまで連れて来ておりながら、弁護士を入れてこちらの方から『許してくれ』はないであろう。向こうから『出て下さい』と云って来るのが当たり前だ」と笑いとばして居られた様だった。

川畑三郎(山村保生さん所蔵)

川畑三郎(山村保生さん所蔵)

 外部からの釈放運動は、島にも来て居られた吉迫紋悟氏の経営されていたホテル・クルゼイロを拠点とする「クルゼイロ組」と呼ばれていた連中が盛んに動いていた様であった。個人で弁護士を入れて居る方もあった。
 何時までも罪のない者を地方の牢獄や島に繋いでおく事もできず、当局は困っていたのであろう。釈放する時期を見ていた時、弁護士は職業上、その事を関知して居て一儲けを企んでいたのではないかと思いたくなる。その様に勘繰るのも、費用をかけ弁護士を入れた者も、その様な動きを相手にしなかったルッセリア、パラナ、ノロエステの一部の方も、結局は「釈放運動組」と前後して島から出てゆかれたからだ。
 我々が決行する前、働かせて下さったり、お世話になった方も島に来て居られたが、その方達も釈放になられたのが何よりであった。
 あの時動ぜずに口車に乗らなかったら、或いはもっと早い時期に釈放になっていたかも知れなかった―と時が経つにつれてその思いが強くなる。釈放

運動によって、結束の固かった団体は弱体化して来て、吉川理事長の病状の悪化でサンパウロの病院に移られた後と思うが、聯盟の解散宣言があり、釈放運動と重なり分裂してしまったのである。
 そのあと根来良太郎などが聯盟を再編された様だが、長くは続かなかったと聞いた。
 分裂した連中が川端三郎の『昭和新聞』、他の人が『中外新聞』を作った。川端三郎、吾妻優樹の二人は入牢された事はない者で、聯盟の創立当時の幹部は地方の牢、主な人は島に送られたのである。
 島の様子やその時の生活振りを思い出しながら綴ったのであるが、何様変動の多かった70年前の事を聞き糺す相手はなく、主だった出来事を、消えかかった記憶を振りおこして纏めたのである。(つづく)