歴史から学び、次の一歩へ
日伯両国の協力のもとで成り立ってきた当病院の75周年記念を迎えられることは、非常に幸運だと感謝します。さらに日本病院として知られる当院の改善と継続に携われることに大きな責任と誇りを感じます。先祖から受け継いだ貴重な財産であり、管理し、さらに良くしていく義務が私たちにはあります。
言葉、習慣、食文化、気候などが異なる未知の土地で、先駆者が直面した医療面での苦労や運命を思うと心を突き動かされます。当時、医師との意思疎通ができなかったために命を落とした人も少なくありません。
経済的に余裕のある状況下にあったわけではないにも関わらず、病院建設のためにと、収入の中からできるだけの寄付を行っていたという移民家族の話を聞くと感激します。さらに皇室のご協力を賜り、日本政府・企業の協力を得るために、固い決意で献身的に努力された日本や当地在住の方々にも心から敬意を表します。
日本から建物資材の梁やセメント、医療機材などの提供をいただき、クリニカス病院に先立ち、ブラジルで初めてX線機材による手術が行われたのは当院でした。
病院内とブラジル日本移民史料館で公開された歴史資料からは、当地日系社会が病院建設のためにどれだけの力を注いできたのか、またコロニアのみならず当地社会に開かれた病院にするため働いた人々の決意を見て取ることができます。
第2次大戦中(1942年)枢軸国に関係する施設としてブラジル政府の介入に遭い、病院経営から離れざるを得ませんでした。病院経営に日系人が再度携わるために、1989年に日系社会が結集したことも記憶に新しい出来事です。
これまでの歴史を振り返りますと、当病院の輝かしい未来を目指して、しっかりと舵をとっていかなければと力が漲ります。75周年の喜ばしい節目をみなさんと共に迎えることができ、先達者たちへの感謝を感じるとともに、過去の過ちから学び、前方を見て再び歩む時だと思います。我々の時代が過ぎ、次の何周年かを祝っている時に、「75周年のときから新たな一歩が踏み出された」と言われるよう尽力していきたいと思います。
75周年迎えた旧日本病院=御下賜金頂き日伯で協力=ブラジル初の日系医療機関=待望の日本病院として建設
日系社会の医療や福祉に大きく貢献し、「日本病院」として親しまれてきたサンタクルス病院(石川レナト理事長)は、今年で創立75周年を迎える。苦難を極めた初期移民から待望され、日本と日系社会の協力によって生まれた同病院の歴史を振り返る。
百年前当時、日本には熱帯特有の病気はまったく知られていなかった。そんな無防備な移民をマラリア、十二指腸虫病、トラホームなどの伝染病が襲った。奥地に集中した耕地や移住地では病院が大幅に不足し、医師の往診を受けるにも多額の費用がかかるほか、言語の壁もあり、多くの移民が命を落とした。
1920年に藤田敏郎サンパウロ州総領事代理が日本政府に現地の惨状を報告すると、衛生補助費として3万6千円が支給されることになった。これ以前から日本病院建設の構想があり、高岡専太郎、細江静雄博士らによる同仁会は、この衛生補助費を使い、ブラジル初の日系病院の建設を構想した。
26年10月には、サンタクルス通りに1万4100平方メートルの土地を購入、31年に内山岩太郎在聖総領事が「サンパウロ市日本病院建設規制同盟会」を結成し、日系社会で寄付金募集を開始してから、本格的な建設運動が始まった。
当時の日系社会は経済的に未熟であったが、「建設の足しになれば」と1つのレンガから寄付するものもいた。内山総領事はそうした現状を鑑み、日本国内から募金を得るために動いた。移民25周年(33年)を記念して定礎式を行った。宮内庁へ働きかけ、34年に昭和天皇名で5万円の御下賜金を受けると、これが呼び水となり日本政府や政府高官から寄付が相次いだ。レンガやセメントなどの基本的な建築材料も日本から送られることになった。
病院建設は36年8月に着工、太平洋戦争開始2年前の39年4月に竣工し、診療を開始した。総工費は4979コントス(約100万円)に及んだ。当時の正式名称は「日伯慈善会サンタクルス病院」、敷地面積1460平米、地上5階地下1階、病室76、200床の総合病院で、戦前期における海外の日系建築としては最大であった。
設計は病院建設の権威レゼンデ・ピッシュ博士が行った。男子患者棟と女子患者棟をV字型に分け、その接点にナース室を置き機能性を高める工夫や、非常階段の設置、院内感染予防に配慮した空調など当時としては画期的なものであった。
初代院長にはピッシュ博士が就任するはずだったが、落成式直前に逝去した。初代院長には後にサンパウロ州大学学長になるベネジット・モンテネグロ博士が着任した。当時ブラジルで唯一レントゲン機材を持っていた同病院は、移民を受け入れたブラジルへの感謝の印として国籍や人種の差別無くレントゲン治療を行った。
「日本移民のための病院」という枠を超えて医療・福祉活動を行ううちに、設備とサービスの高さが評判となり、広く「日本病院」として知られるようになった。
太平洋戦争勃発により、42年1月にブラジルは日本と国交は断絶し、同病院は敵性資産として接収され、経営権は日系人の手から離れた。89年に日系人から病院の返還運動が起き、多数の署名が集まるなど盛り上がりを見せた。90年には経営に日系人も参画する協定が結ばれ、名称も「日伯慈善協会サンタクルス病院」となり、再び経営権が戻ってきた。
日本人向けサービス充実=東京海上やJi保険利用可
サンタクルス病院には非常勤を含めて約2千人の登録医師と、約900人の職員が働いている。その約3割は日系人で、「日本の方が言葉で苦労することは、余りありません」と同病院診療医療管理者の藤村ゆりさん(75、二世)は話す。
外来窓口には常に日本語を話せるスタッフがおり、予約の電話(11・5080・2002)も日本語で行える。入院中は日本語を話せる院内ボランティアが毎日各部屋を訪ね、不満や不安を解消する活動を行っている。
日本語サービス以外にも入院中の食事に日本米や味噌汁、うどん、そうめんなどの日本食を選ぶことができるほか、敷地内には活け花や日本庭園がある。救急外来は24時間対応可能で、東京海上日動とJi傷害火災の保険が適用可能など、日本人向けのサービスが整っている。
総領事館やJICA関係に加え、駐在員にも利用されている人間ドッグでは、検査、診察などの必要時には付き添い通訳が付くという。日本語を話す医師も内科を中心に数人勤務し、検査結果は希望する言語(ポ語、英語)で発行している。
2000年には施設の近代化が行われ、外科と眼科においてはブラジル屈指の技術力を誇る病院となった。同病院には過去、ブラジル心臓移植手術の第一人者ジョゼ・ゼルビーニ氏やサンパウロ・癌センター創設者アントニオ・プレデンチ氏なども勤めていた。