ホーム | 連載 | 2014年 | 伯国ドラマの中のジャポネス=時代と共に変遷する役柄 | ブラジルドラマの中のジャポネス=時代と共に変遷する役柄=(上)=唯一の日本生まれの俳優=金子謙一「パステル屋から師匠に」
金子謙一
金子謙一

ブラジルドラマの中のジャポネス=時代と共に変遷する役柄=(上)=唯一の日本生まれの俳優=金子謙一「パステル屋から師匠に」

 「日本から来て、こちらの映画でずっと俳優をしている日本人は僕だけ」。画家の金子謙一(79、神奈川)はそんな不思議な経歴紹介をする。公開されたばかりの映画『グランデ・ビットリア』では柔道師匠役を演じた。文句なしに日本人で最多のブラジル映画出演本数約13本を誇る。「役柄は時代と共に変わってきた。最初はパステル屋、洗濯屋、密売人とかだったけど、今は先生とか師匠が多い。作家が持つ日系イメージが良くなってきているのを反映している」。ドラマの中の日本人役の変遷を、金子に聞いてみた。

 横浜生まれ。16歳の頃から鎌倉の小さな劇団で活躍し、1960年、25歳で渡伯するまで役者に熱中していた。渡伯の世話をした力行会では3カ月間の事前研修があった。永田稠会長(当時)の前で「ブラジルに行ってからやりたいこと」を言わされた。「ブラジルの次はパリ。あちこちで絵を描きたい」と言ったら、永田は否定的なことは何も言わず、ただ「初志貫徹すべし。一生懸命にやり過ぎると体を壊すから、そこそこにがんばれ」と励ました。
 金子は「会長は不思議な人でね。指導者の人格が大きな影響力を持つ、力行会はそんな団体でした。当時教えられたことはチンプンカンプンでしたが、50年経ってみると、自分の人生の方向を変えた3カ月だったと思う」と振り返る。
 来伯後、しばらくしてから絵描き仲間の二世を通して、映画監督の卵だった山崎千津薫と知り合った。グラウベール・ロッシャ監督に師事した彼女は、79年頃に処女長編となる映画『Gaijin』(1980年)の俳優を探しており、金子は二つ返事で出演を承諾した。他に日系俳優はおらず、彼以外は日本から呼んだ時代だった。
 その映画がカンヌ映画祭の審査員特別賞を受けた。授賞式に監督と出席した金子は、グローボTV局関係者から「俳優を続ける気はあるか」と尋ねられた。「もちろん」と答えると、同局で役者として雇われた。以来10年ほどをリオで過ごし、ドラマに出演した。
 『Gaijin』で共演者した名優アントニオ・ファグンデスらとグローボで再会した。彼らから助けられ、ブラジル人ばかりの劇団に誘われ、7年間も全伯を廻った。何気なく言う当時の〃仲間〃の何人かはグローボ局ドラマの常連だ。
 「あの当時グローボでも専属俳優は5、6人しかいなかった。僕らは基本給が月2千、3千グルゼイロ、出た作品の数に応じて歩合が300、400と加算された」という。クルツーラやバンジ局の作品にも出演した。
 映画には通算13本ほど出演した。中にはお蔵入りの作品もあるという。1985年頃にグローボ局で半年間ほど放映されたドラマ「キナ・デ・ルア」(De Quina pra Lua)では、元々イタリア移民役だったのを、金子のために日本移民アキラ役に筋書きを変えたという。
 その後、1991年にTVクルツーラの「ムンド・ダ・ルア」(Mundo da Lua)に2年間、チオ・カトウ役で出演した。「子供時代にそれを見た人が今、40代、50代の大人。僕の顔をみて、今でも懐かしいと声をかけてくれる」と笑う。
 1990年頃、「本業の絵描きに戻ろう」と考え直し、サンパウロ市に拠点を戻した。(敬称略、つづく、深沢正雪記者)