「ブラジル人として戦中戦後の差別的な待遇を日本人に謝りたい。肌の色はいろいろだが、人間は一種類だけだ」。5月31日午前10時からサンパウロ州ツッパン市の市議会で行われた「1946―47年の間の日本移民の死と拷問」公聴会(主催=青木カイオ市議、ツッパン文化体育協会、山内家)で、真相究明委員会サンパウロ州小委員会のアドリアノ・ジョーゴ委員長はそう謝罪した。約60人余りが傍聴席で熱心に耳を傾けた。勝ち負け抗争の出発点ツッパンで、「戦後の移民史をどう理解したらいいのか」と勝ち組子孫が真剣に問いかけ始めた。
「日本の敗戦を喜び、皇室を汚すような発言をする一派が跋扈する状況になった責任を問う」と思い詰めた愛国的強硬派が、終戦直後、敗戦の報を広く知らせた終戦伝達書の署名者7人の殺害を図った。それをきっかけに、20人余りが犠牲になる惨事が日系社会に起きた。
この勝ち負け抗争は1946年1月に、ツッパン市郊外にあったクイン植民地の「日の丸事件」から始まった。纐纈家で日本人が集まって新年会をやっていた時、密告で駆け付けた軍曹らが出席者を暴行し、警察署まで連行した。「押収した日の丸で軍曹が汚れた軍靴を拭った」との噂がながれ、その真偽を確かめるために日高徳一さん(当時20歳)ら7人が警察署に向かい、逮捕されたという事件だ。
フェルナンド・モライス著『コラソンイス・スージョス』(2000年、カンパニア・ダス・レトラス)では「日の丸事件」のことを、臨場感たっぷりに「日高は刀を抜いて一撃を食らわすべく突進して来た。兵士たちは5人がかりで取り押さえ、武装解除した」(20頁)と描写する。
ところが日高は公聴会で「わしらは日の丸で靴を拭ったかどうかを確認にいった。日本語学校の夜学の帰りだったから学用品を手に持っていただけ」と証言し、「通路を挟んで向いの留置場には纐纈さんら数人がいて、警察に拷問を受けて身体中がアザだらけになっていて座る事すらできないほど苦しんでいた。本当にひどい光景でした」と加えた。
46年4月以降に起きた殺害事件の実行者(日高ら)10人の一人に池田満がおり、弟・福男がツッパンの大西写真館で見習いとして働いていた。日高は「福男くんは我々とはまったく無関係だった。病弱だったので写真館で見習いをしていた。兄が我々の仲間だったから第2弾じゃないかと疑われ、ポンペイアの警察署で殴る蹴るの拷問を受け、アンシェッタ島に送られた時にはもう弱っていた。医者の指示でサンジョゼの病院に送られ、青酸カリを飲んで自殺した」と語った。
大西写真館の館主の娘・仁井山スエコ=サンパウロ市在住=も証言台に立ち「母は福男さんのことを『とても才能のある若者だった』といつも嘆いていた」とのべた。さらに「今16歳の私の子が、二年前にネットで私の父の名前を見つけた。モライスの著作から広まったようだ。私は怖くて、あの本をいまだに読むことができない」との辛い心情を吐露した。
「なぜ父が何度も逮捕されたのか、今も理解したいと思っている。家族の歴史のためにも、本当に起きたことは何だったのかを知りたい」と悲痛な心の叫びを口にした。
父は警察に何度も勾留され、写真館は閉店となり生活苦に陥り、出聖して写真館を再開した。ツッパン時代は〃失われた家族の記憶〃だという。(つづく、深沢正雪記者、敬称略、第2回から6面へ)
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