1946年当時の伯字紙は連日「臣道聯盟はテロ集団だ」と報じ、その悪印象が根強く残ってしまった。そのため多くの臣聯関係者がその件を心にしまい込み、きちんとした事実関係を子孫に伝えてこなかった。加えて、勝ち負け抗争という未曽有の出来事に際し、「臭いものにフタ」という日本的な態度でコロニア指導者は対処してきた。
その結果、「臣聯=愛国テロリスト集団」「勝ち組=狂信者」という見方が書き残され、「本当はどうだったのか」を検証する取り組みが行われてこなかった。検証されないままにその見方が一人歩きし、ひずみとなって勝ち組子孫に重くのしかかっていた。
そこへ突然、2000年にブラジル人有名ジャーナリストのフェルナンド・モライスが著書『コラソンイス・スージョス』(2000年、カンパニア・ダス・レトラス)という〃爆弾〃を落とした。半ば興味本位的な小説調の筆致で、百数十人の実名をあげながら勝ち負け抗争を「臣道聯盟=テロリスト」的な論調でセンセーショナル(扇情的)に報じ、ブラジル社会に大反響を呼び、同名映画まで制作された。
その本の表紙につかわれたのが、大西写真館で撮影された日の丸事件の7青年の写真だった。
モライスの『コラソンイス~』は実在の事件を誇張した部分があり、多くの新事実を発掘したのも確かだが、日系人のタブー的歴史領域に、泥足で踏み入ったような印象を残した。あまりに強いショックを勝ち組子孫に与えたため、現在の様な歴史見直し機運につながった。
「臣聯=テロリスト」という見方に対して、二世側からの反発の先鋒はエスタード紙編集委員の保久原ジョルジだった。『O Sudito (Banzai, Massateru)(臣民―万歳、正輝)』(ポ語、2006年、テルセイロ・ノーメ出版社)を著し、聯盟員だった父親を中心に家族史を描く中で「テロ集団ではない」との疑問と反発の声を挙げた。
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日高は公聴会で「ツッパンの山内健次郎さんは臣聯幹部だったというだけでDOPS(政治社会警察)に連行され、尋問中、御真影を踏んだら出してやると言われた。山内さんは『そんなことをするなら死んだ方がましだ』と3階の窓から飛び降りようとして取り押さえられた。高齢の父を一人にできないと同伴した息子房俊さんと共に島に送られた」と証言した。
当時の日本人であれば、敗戦を認識した人物ですら御真影を踏むなどできなかっただろう。まして勝ち組が…。
日高ら実行者十数人以外、172人の大半は、臣聯幹部という〃容疑〃で逮捕され、御真影や日の丸を踏まなかったために監獄島アンシェッタ島送りにされた。しかも46年11月には大統領から国外追放令まで出された。
「ツッパンからは13人が島流しされた」と日高はいう。アンシェッタ島は当時、重刑者のみが送られる流刑場だった。当時の警察としては「臣聯幹部=テロ犯罪の共犯容疑」であった。
脇山甚作殺害事件の実行者の一人、日高は「我々は臣道聯盟とは何の関係もない。親が臣道聯盟幹部の人は、疑われたら大変だからと、わざと誘わなかったくらいだ。私らは青年仲間だけで個人的に参加を決めた」と繰り返す。「臣道聯盟は単なる精神修養団体で、ツッパン支部では日本精神に関する講話、日本語教育、柔道などをやっていただけ」という。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)
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