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パウリスタ延長線戦後史1=子孫にとっての勝ち負け抗争=(3)=臣聯は司法、行政的にシロ=戦中戦後の日本人差別とは

 日本移民への行動制限の多かった戦中や終戦直後の世情や通信状況を考えれば、前年8月の終戦後に結成されたばかりの臣聯に、1月の「日の丸事件」以来わずか2、3カ月で多くの地方支部と綿密な連絡を取り合って、4月以降の数々の事件を計画することは本当に可能だったのか――。
 勝ち負け抗争を徹底的に調べたフリージャーナリストの外山脩は『百年の水流』(12年、改訂版)の中で、臣聯の本部職員だった佐藤正信の証言として《もし臣聯が(襲撃指揮)をやっていたら、とても、あんなものでは済まなかったでしょうヨ》(319頁)との言葉を紹介した。《現実に起きた襲撃の様子は、まことに素人っぽい。そして、目的の達成率が低い》(319頁)と指摘している。本当に退役職業軍人が血気盛んな青年らを訓練していたら、あんなものではすまなかったと見ている。

真相究明委員会サンパウロ州小委員会のアドリアノ・ジョーゴ委員長

真相究明委員会サンパウロ州小委員会のアドリアノ・ジョーゴ委員長

 さらに外山は同著で驚くべき結論を出した。日高さんの様な実行者は30年前後の懲役刑を申し渡されたが、それ以外は誰一人起訴されなかったというのだ。《臣聯の本部の理事たちが、被告として法廷に立つことも、なかった。検事側の起訴申請を、裁判所が拒否したのである。(中略)オールデン・ボリチカは、ほかに、検挙者の内、四百数十人を起訴しようとしたが、それもできなかった。(中略)国外追放令も、それから数年後、1959年から1962年にかけて、クビチェック、ジャニオ両大統領の時代に取り消された。かくして司法的にも行政的にも「臣道聯盟はシロ」という結論が出た》(318頁)。
 「臣聯が組織的に殺害事件を計画した」のではなく、「臣聯メンバーを含んだ一部の強硬派が三々五々、同時多発的に勝手に実行した」あたりが現実的な解釈ではないか。ならば「臣聯=テロリスト」という解釈は明らかに誇張だ。聯盟員であるだけで犯罪者と断定するような風潮は偏ったものではなかったか。
 終戦直後の同胞社会の7、8割が勝ち組で、その最大集団が臣道聯盟だった。1960年前後に「臣道聯盟はシロ」との司法的、行政的な判断が出たにも関わらず、当時の邦字紙や移民史編纂委員会は、その事実を同胞社会に広く定着させようとはしなかった。
 その結果、当時、人格形成期を迎えていた子孫が2000年頃には家長にとなり、三世世代にどう歴史を伝えていいのか悩む時代になった。たとえば終戦時に10歳なら2000年には65歳だ。そんな二世家長にとって、実名が多数出てくるモライスの著作は、家族の歴史に触れる由々しき問題を提示した。
 「ファミリアの誇り」がその一冊によって汚される雰囲気が高まったため、日系社会の〃パンドラの箱〃を開けたかの様な反発が次々と起こっているのがここ数年来の状況だ。
 ブラジル社会に対して悪い印象を与えた勝ち負け抗争が起きて、強い引け目を感じたコロニアは、戦中や終戦直後に頻発していた日本人差別や迫害に対する怒りを自発的に抑え、「なかった」かのように振る舞ってきた部分があった。
 モライスの本には当時の警察による日本人差別についても記されており、いろいろな意味での関心を喚起した。(つづく、深沢正雪記者、敬称略)