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連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=5

 ただ一つ困ったのは食べ物だ。子供の自分でさえ困ったと感じていたのに、両親はどんなに辛かったのだろう。米は有るとはいえ、屑米でパラパラしてまずい。日本にいたときは、白米は自家作、野菜も有り余るほどで、食べ物の不自由なく暮らしていただけにかなり辛かった。もう2カ月も過ぎたが、働くだけで金は見たことも聞いた事もなく、満足な食べ物もなく生きているというだけで体は衰弱するばかり。満足に食べられるのは道ばたにあるさつま芋位だ。
 何とかせねばとは思うが先立つものがない。金は一銭もない。配給物は口に合わない。今月になって干し肉が届いたが、塩辛くて食べられない。畑仕事の帰りに食べられそうな草を見つけては食べたりして忍んだ。この前から青いマモンを煮て食べる事を覚えた。味はたいした事無いが、癖が無いから何とか食べられる。その内に青いマモンの塩もみを漬物がわりに食べたり、生きていく為に手あたり次第何でも食べた。
 生きるか死ぬか。家のものは皆苦しんでいる。もちろん家だけではない、他の人も同じ状態だ。年老いた両親はどんな思いだったであろう。僕もだが、妹のみゆきと弟の好明、従兄弟達は尋常小学校に通っていたのに、ブラジルに来た為に学校にも行けず、重いエンシャダ(鍬)を引かされて可哀想だと涙をこぼしている父母、身が裂けられる思いだったのだろう。
 そうしたある日、ひょっこり大塚さんが見えた。出迎えに来てくれてからの3カ月程の間に、げっそりと痩せてしまった父母を見て、大変驚いた様子だったが、事情は充分察せられたのだろう、何も言わなかった。郷里の大先輩である大塚さんは、我々家族がモジアナ線の外人耕地へと配耕先が決まっていたのを知って、自分の住んでいるドゥアルチーナの知人である三坂さんに頼んで取り替えて貰ったとの事。
 外人耕地では、奴隷同然に移民を扱っていたそうだから経緯もある大恩人だ。もてなすべき事はおやじも知ってはいるが、かなり当惑気味。と言うのもどうやって持て成そうかとの悩みらしい。ない袖はふれぬ。酒好きな方だからと、母は家から4キロ位の所にあるという売店に、どこでどう工面したのか知らないが、400レースの金を持たされて酒を買いに行った。
 ブラジルに着いて初めて耕地の外に出る。その売店までは上り坂に下り坂と3つ程の小川があった。小川には橋がなく、足首までしかない水の中ではめだかが泳いでいるのが見えた。雨が降ると水が増えて渡れぬ状態になり、雨季には3日も4日も車も通れぬようになるそうだ。道の脇にはマンガの木がたくさんあったが、実はなっていなかった。みかんはたくさんなっていた。1リットルの酒を買って、400レースの金が日本の金にしたらどのくらいの価値があるだろう、と考えながらブラジルに来て初めてのおつかい。
 ブラジルという所は金の流通がないところらしい。小沢さんや山崎さんの話では、一昨年に来てまだ現金を見たことがないそうで、食料品や反物を買うにしても、金券を貰って指定された売店でしか買えない仕組みになっていた。2年の義務農年が済んで、借金がなければ退耕して自由になるが、借金があったら新契約で留耕しなければならない。1888年の奴隷解放後も、その面影は残っているらしい。働いても金券しか貰えず、2年間も金を見た事がないとは悲しい。それがブラジルの仕来たりならば従うより外にはない。