社会の様々な分野において顕著な功績を挙げた者を表彰する『春の叙勲』が4月29日、日本政府によって発令されブラジルの5人が選ばれた。下本八郎氏(78、二世)は日系議員として日系社会の地位向上に多大な貢献が認められ、旭日中綬章を受章した。しかし、同氏の日系社会に対する功績は政治活動だけではない。実業界においても日本人の美徳である正直さや勤勉さを発揮し、ブラジル社会に「ジャポネス・ガランチード」を浸透させた一人といえる。同氏の立ち上げたキング会計事務所は17日で創設55年の節目を迎えた。政界、実業界での活躍を振り返りながら、コロニア、日本への思いも聞いた。
両親の教育が今を作った
1935年、サンパウロ州グアララぺス市で12人兄弟の8番目として生まれ、東郷平八郎にあやかって「八郎」と名付けられた。父・安市、母・富栄の教育は厳しく、事あるごとに「ブラジル人に迷惑をかけるな」「日本人の名に泥をつけるな」と叱った。
下本氏は両親の教育を「明治時代の教育」と呼び「両親の教育のおかげで、日本人としての誇りを持つ事が出来た。日本人として恥ずかしくないように生きようと思った」と振り返る。
苦労重ね、会計士目指す
少年時代の下本氏は負けず嫌いな性格で、家族で綿栽培をしていた時には、作業量で大人に負けぬよう、夜が明ける前から1人で作業した。15歳の時、下本家は魚屋を始める。ある時、国から税金の督促を受け「しっかりと帳簿をつけ、税金を納めているのにおかしい」と下元氏は父と共に会計士に説明を求めた。すると会計士はろくな説明もせず逃げてしまった。「当時は無責任な会計士が多かった」と下本氏。「責任を持って仕事をする会計士が世の中に必要」と強く思い、進学を決意したという。
その後、マッケンジー大学、サンパウロ生涯教育センター大学院租税法専門学科、フランス・パリのソルボンヌ大学比較法専門学科の三大学を卒業。在学中から会計事務所で働き、経験を積み、60年、26歳にしてペーニャ区カキト街の小さな一室にキング会計事務所を開業する。社名のキングには文字通り「業界で一番になれるように」との願いがこめられている。
信頼を元に、事業を拡大
同事務所は下本氏の志を反映して契約書に「会計処理の誤りによって生じた損害は、責任を持って同社が負担する」と明記され、当時のブラジルにあっては珍しい、信頼出来る会計事務所として名を広めていった。
堅実な経営で業績を伸ばしていた同事務所にも、従業員への給料の支払いにすら困窮する時期が来る。下本氏は「従業員であっても、迷惑をかけてはいけない」と自身の給料を削ってやりくりし、苦境にあっても経営者の責任を果たし続ける同氏の姿に、従業員も一層、下本氏を信頼するようになった。
その後キング会計事務所は、経営範囲を広げていく。70年に下本八郎弁護士事務所を開設。86年にはキング不動産を開き、コロネル・メイレレス街に8階建ての本部ビルを建設した。ビルには信仰する生長の家の創始者、谷口雅春の名前を冠し、現在も新ビルの建造計画を進めている。
「創設の理念を忘れず、ブラジルを支える会社として永遠に続いて欲しい」と将来を語る下本氏。副社長で息子の雅生氏(50、三世)は「父の教えは自分の中にしっかりある。責任を持ってお客様の為に働きたい」と意気込んだ。
政治と経営、二足の草鞋=畏怖と尊敬集めた28年
政治家を志したのは1955年頃。大学に行きながら会計士として働き始め、サンパウロ州商工会議所などの活動にも参加するようになってからだ。
活動中は、政治家との接触が多くなり「国を良くするためには教育を良くしなければならない」との思いを深くした。
師事したのは日系初の連邦下議、田村幸重氏。「講演会や結婚式の現場まで自家用車で送り届けたこともあった」と懐かしげに話す。実業家と政治家の二足の草鞋を履いていたのも田中氏の助言があった。
田村氏は軍事政権が議会を強制閉鎖した時、はっきりと反対の意思表明をしたことから反政府的と見られ、議席を10年間剥奪された。その時の苦労からか、下本氏に「政治家になるなら先に経済力を付けろ」「帰る仕事があれば食うに困らない」と語っている。
師の教えに従い、会計事務所の経営に精を出しながらも政治の勉強を続け、71年にサンパウロ州議選に初当選したのは37歳のとき。99年まで、28年間に及ぶ議員生活が始まった。
州議会で下本氏は「恐れられながらも、尊敬されていた」そうだ。ある議員から総領事への口利きを頼まれても「金儲けの為に紹介する事は出来ない」と撥ねつけ、自らの所属する党に賄賂と思われる接待旅行の招待が来た時も「参加したものを私は告発する」と釘を刺して回った。
議員としての精励振りは、48本の法律を成立させ、日系議員最多となる1460回以上の演説を行ったという数字にも表れている。
「国作りは人間作り、人間作りは教育。特に愛国心を育てる事が大事」と教育政策に対して情熱を燃やし、日系社会はもとより、ブラジル、日本の発展に力を尽くしていく構えを崩していない。
改めて振り返るコロニアへの貢献
日系政治家として日系社会の地位向上を果たし、日本政府にも認められた下本氏。改めて、コロニアへの功績を振り返る。
ブラジル生長の家、ブラジル珠算文化協会、エスペランサ婦人会、日本語普及センター(現日本語センター)の4団体を公益法人に指定。
サンパウロ市リベルダーデ区の七夕祭り、イタケーラ区のさくら祭り、ペレイラ・バレット市の盆踊り大会をサンパウロ州観光カレンダーに組み入れた。サンパウロ州公立中高校で近代外国語の一つとして日本語を選択科目に採用、70歳以上の日本移民に対する年金を申請、73年には三重県姉妹都市協定コーディネーターとして、津市とオザスコ市の姉妹都市協定協定を実現させ、リベルダーデ区にある陸橋を「三重県橋」と命名。
その他にも、日本人旅行者に対する査証免除要請や鍼灸師の職業規定要請など、コロニアを代表し、ブラジル政府に多くの提言を行ってきた。
「猫がパン窯の中で生まれたとしてもパンになる事はない。日本人はどこで生まれても日本人」とアイデンティティへの強い自覚が政治活動の原動力となってきたことが分かる。