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連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=27

 あれ程心身ともにどん底に落ち込んでいた母の奇跡的な甦りはただただドトール・メルカダンテの優しさと励ましの言葉のお陰だったと思う。医は仁術と云うが、正に佛様に見えた。
 唯一つ気になったのは最後の「命は一つ。大事にしなさい」。何かの暗示だったのだろうか。胸騒ぎが治まらない。でも、母の少なからず元気な姿を見ての家族一同の感激は、いかなる当局の圧迫にも屈する事のない勇気百倍と決死の魂を目覚めさせた。
 しかし、母の容態はひびが痛むらしく依然として足が立たない。それでも気丈だ。それが何よりの救いだった。それから何日か平和に過ごしたが、又しても家宅捜査の名目で前にも増しての狼藉振り。偉そうにしている兵隊でも、一瞬母の憎悪の目を恐れたように感じたが、それにもかまわず何を探すのか、ただの嫌がらせか、乱暴に家中を荒らし続けた。広くもない、家具もないたかが百姓の小屋を。
 そうだ。日本人はスパイだと言う噂が世間で取り沙汰されている。とするとあの父と兄の軍服姿の写真は、そういうことに使われているのかも。狂気の沙汰と笑い出したくなると同時に、これまで心身ともに踏み潰され続けると我ながら何時爆発するかの恐れもある。また、集団心理とは恐ろしいものだ。今までおとなしく従っていた使用人たちも反抗の気配を示すようになった。官憲の圧迫が加わるにつれ住民の中でも日本人が敵性国民に映り出して来た様で身に危険が迫って来る感じが強くなって来た。何とかせねば。
 あの頃は兄がすでに結婚しており、兄嫁が身ごもっていた。万一の事態に備えて置こうと考え、話し合いの結果、身重の兄嫁そして年老いた父母をどこか安全な場所へ送り、こっちが身軽になったら動きやすくなるからと云うことで、ドトール・メルカダンテが進めていた母の専門医への診察を理由にバーラ・ボニータ警察署へ重い足を運び、サルヴォ・コンドット(戦争当事伊、独、日人に与えられていた交通許可書)を申請したが、物の見事に却下され、非常の手段に出るより方法はなくなった。
 家族協議の結果、若い男は残り、父母と兄嫁、そしてみゆきに夜逃げの形をとってもらうことにした。そのために、朝早く好明と二人で最寄りの駅、カンポス・サレスまで行き、時間表の確認を取りに行った。
 目立たぬように8キロの道程を出来るだけ早く往復し、その夜にでも汽車に乗せる計画を立てた。最悪の場合、血と汗で再建の望みを賭け、開き始めたばかりの40アルケール近くの棉、全財産全てを放り投げての逃亡になりかねない。これも家族全員の、いや、中野家の危急存亡に関り、決死の行為であった。好明まではある程度分かっているはずだが、10歳になったばかりの稔はずっと母にまつわっている。
 しばしの別れが耐えられないのだろう。皆暗い表情をしている。マリリア行きの汽車は23時20分発だ。頼れる者はドゥアルチーナにしかいない。マリリア行きの途中で降り、ドゥアルチーナに着けば何とかなるだろうと、勿論確かな状況は把握できない。
 町にはタクシーが2台しかなく、夜中近くのタクシー代も法外といえるほど高かったが致し方がない。夜の10時に迎えに来てくれる事になった。まだ時間はある。