【59年7月28日付日毎紙】熱烈な歓迎に感謝します。色々と歓迎の言葉にあったように皆さんの日に焼けた顔には、言葉も通ぜず風俗習慣の異なったブラジルで風土病と戦いながら開拓の苦労をして今日の繁栄を築いた辛苦が伺える。またそのシワには移民50年の苦労と努力の跡が刻まれている。
けれどもその苦労を基礎として二世・三世は、連邦代議士や州代議士、市議員など多数出て、政治、社会、文化、経済方面に貢献している有様をみると心強いものを感じる。
皆さんと会っていると初めて会ったようには感ぜずに、久しく会わなかった身内の者に会ったような親しみを感じ、このように歓迎されると目頭が熱くなる。
ブラジルの朝野の人々に会ったが、等しく日本移民の誠実とブラジルの発展に貢献していることを賞賛していた。これはお世辞ではなく民族の優秀なのを云っている今回の旅行でイタリア・フランス諸国を廻ってみて東洋の日本に期待しているものが大きいのを見てもわかる。
いま日本は終戦後の欠乏から国力を回復し戦前の数倍となったが、これは民族の優秀性と忍耐強さを物語るもので、皆さんも誇りを持ってやり、元気で繁栄してください。
1985年10月1日、サンパウロ市協栄サロンの歓迎会で=父・安倍晋太郎外相の挨拶=「日伯交流の鎹は日系社会」
【85年10月2日付パ紙】家内の父・岸元総理が初来伯。先輩の福田元総理が大統領の就任式に来伯。同じ選挙区で大先輩の田中竜夫先生がブラジルにきている。わたしに近い人がみんなブラジルに関心がある。ブラジルに来ることはわたしの念願だったが、大臣になって実現できて感激している。
サルネイ大統領とセツバル外相に会い、忌憚の無い話し合いができ実りが多かった。益々、強い絆があると確信した。また、日系人の活躍ぶりと努力について、ブラジル要人に感謝され、日本人として心から誇りに思った。日本人たちがブラジル人として努力している姿は日伯友好の象徴であると感じている。
日伯合併のセラード開発開始のとき、わたしは農業大臣として日本側の責任者だった。日伯間はプロジェクトを続々生み出しているが経済のみならず人的、文化の交流の深まるなかで、日伯交流の“鎹(かすがい)”になっているのは、日系社会のみなさんだ。日本国民を代表し心からお礼を申し上げる。
戦後日本は40年。アメリカに次ぐ大国になった。外務大臣就任中、三十三回も外国に出張した。それだけ世界で日本は重要な立場になった。発言力も重くなり、平行して国際的な責任も重くなった。自由貿易体制のおかげで世界の発展があった。日本も世界へ貢献しなければならないが、開発途上国へ7年間に4百億ドル以上の援助を約束、7年後には倍増する考えである。
アジアでは日本、南米ではブラジルと影響を与えている。世界経済の発展のための協力はセツバル外務大臣と合意。ブラジルの借款、債務問題については解決のための協力を約束した。
安倍総理の秘書時代に
85年の安倍晋太郎外務大臣来聖の際、山口県人会(当時・河添清会長)はサンパウロ市内のシーザーパークホテルサロンで歓迎会を行い、県人会員118人が祝った。当時31歳の安倍晋三氏も秘書として随行していた。
会に出席した西村武人県人会顧問(74、山口)は、「晋太郎さんは、日本の新リーダーとして輝いていた」と当時を振り返り、晋三氏については「決して目立たず、常に後ろに控えていらした」という。