1951年10月5日パ紙は《「時の人」松原安太郎氏に「移民」を聞く》《有望なのは麻州‥》との3段見出しで報じた。《日本移民大量誘入が話題になるにつれて、マリリア在住の松原安太郎氏の名がクローズアップされて来た。特に先般ヴァルガス大統領から派遣された調査団に加わって以来ジャーナリズムの好対象になった感がある》で始まる。
将来の松原植民地候補地に関して視察した感想を《視察してきた三州のうちでは麻州が最も日本人の植民地を作るのに有望だ。連邦政府の所有地があるドラード地帯が中でも一番好適。ここにはすでに政府の手で他州から入れたブラジル人移民が多数農業に従事している。このドラードの植民地はカンポ・グランデから百六十キロ、》ブラジル・ボリビア鉄道から四十キロのところにあり交通の便もさして悪くない》と論評している。
つまり、1951年10月の時点で、将来の松原植民地(ドウラードス)はすでに最有力候補といえる存在だった。
記事の最後に《「皆が知りたがっているヴァルガス氏との関係は」と聞くと、「それは今は…いずれ詳しくお話しましょう」との返事だった》と返答をはぐらかした。
候補地選定のため空軍機で調査した時、「上から見て、密林に覆われたマット・グロッソは良い土地だと思って、インディオがいる土地だと知って決めたらしい。サンパウロやパラナの土地が違うと知らなかったのね」と祐子さん。「良い土地」でなかったことは、その後の入植者の動向が証明している。
52年7月13日付エスタード紙では、驚くことに《マリリア在住のファゼンデイロ松原安太郎はサンパウロ州に日本移民を導入する契約を農務省に提出した》との記事が掲載されている。52年7月の時点で松原はサンパウロ州に導入することに拘っていたようだ。いかに大統領の後押しがあったとしても、それはさすがに抵抗が強く、政治的なせめぎあいの結果、「もっと遠隔地なら」という方向で認可された流れだ。
52年8月24日付パ紙は、リオの移植民審議会が日本移民9千家族入国の申請を承認したと報じた。うち上塚司が申請したアマゾン移民(通称=辻移民)5千家族、松原移民が4千家族で、1953年に割り当てられたのは上塚関係370家族、松原関係300家族となっている。《討議は数時間にわたり激論が取り交わされた模様で、最も問題となったのは家族数が余り多すぎるという点にあったという》と報じられている。
同9月3日パ紙では、伯字紙がこの件を報じ、《今回の日本移民は「個人的」な計画によるもので、ブラジル政府はこれらの日本移民が一ところに集合し、キストを作ることから生じる諸問題を避けるため、移民の割り当てを監督する》とし、サンパウロ州から遠く離れたアマゾナス州、パラー州、バイーア州、麻州などの名を挙げている。
52年10月1日付パ紙では、ヴァルガスのマリリア訪問の風説があるとの見出しで、《大統領は近日中にマリリア地方の日本人在住者の主催にかかる歓迎会に臨席し~》とか《サンパウロ州に立ち寄ってマリリア地方のアルキメデス・ギマランエス氏所有耕地を訪問して「週末休養」をするかもしれない~》と、日系社会面ではなく国内ニュース欄で触れた。
さらに52年10月8日付パ紙は、「大統領、松原耕地訪問」「ガルセース知事と重要会談」と報じた。不思議なことにトップ記事ではなく、3段見出しで大きな扱いではない。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)
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