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連載小説=子供移民の半生記=家族みんなで分かちあった=異郷の地での苦しみと喜び=中野文雄=35

 この2年間で5千本位だ。コーヒーの樹は3万8千本。この調子だとあと10年かかってしまう。百姓には生き甲斐だが、恐ろしく気の長い話だ。
 考えてみると人間も同じだ。生まれてから成人になるまでに少なくとも18年はかかる。計算づくではなく、親の苦労を仰ぐことの少ない人間の育成に比べ、農業とは作物が確実に答えてくれるやりがいのある仕事だ。
 労働は厳しいが若さが何よりもありがたく、一晩ゆっくりと休めば、翌日にはまたどんなにきつい労働にも耐えられる。百姓の家に生まれたので、百姓として生きるのは当然のこと。今ほど自然の摂理を感じたことはない。化学肥料は手っ取り早く、1~2年は効果がある。でも、主体の地力は落ち、カラカラになる。地力をつけるためにはどうしても有機肥料は欠かせない。労力と根気のいる仕事だが、百姓としては遣り甲斐のある仕事だ。

第十節 日系社会の未曾有の混乱-「勝ち負け」抗争

 年は過ぎ、早や6年目になる。有機肥料の施肥を始めたころは近所の外人たちにバカ扱いにされていた。「自分たちは親から代々百姓をやっているが、肥料なんてやったことはなくても、ありがたいもので毎年収穫ができる。人間が年を取って活力を失いやがて死んで行くのと同じで、コーヒーも古くなれば実が少なくなるのは当然だし、肥料を入れてもいずれは実がならぬようになっていくのは神の摂理だ」と信じていた。だが、肥料の効果が見え始めた今では、遅蒔きながら我が家を真似るようになってきた。よい傾向でブラジル産業にも貢献出来たようだ。よい結果は人の心を変える。そうした変化は自然と人の心も和ませる。周囲の感化とは恐ろしい。
 ドゥアルチーナという日本人の一大集団地とは言え、隔絶した場所に住んで居たので、世の中の情報が全く分からずにいた。知ろうとしなかったと言った方が正しいかもしれないが、戦況は日本に利あらず、ドイツ、イタリアの降伏で、全世界が無敵と言われた日本に集中していた。
 長年の戦争に国力を消耗し物資の欠乏は甚だしく、ガソリンもなければ戦うための弾もない。沖縄は敵国に蹂躙され、今や本土決戦と婦女子まで狩り出し竹槍で最後の決戦と、先の見えない軍閥に引きずられて祖国の一途を落ちていく。
 祖国日本とは神国不敗の国だと信じ、軍閥も政治家も大きな口を叩くが、12歳程度の頭脳の考えしか持っていない奴等ばかりで、英米相手に優秀な頭脳も資源もない状態で戦争を仕掛けるという、馬鹿者ぞろいの日本が負けるのは当然だという政府軍人団体への誹謗は甚だしいが、皇統天皇家までも誹謗する非日本人がいると聞いている。
 正に末世の感がすると真(まこと)しやかに説きまわる人ですら居るという。しかもかつて日本の指導的立場にいる人物らしい。その中、血の気の多い人が抗議、抗弁すると、「何が分かる、貧乏人のくせに! ラジオもなく新聞すら読めぬ貧乏人は疑い深い半面、馬鹿共の言うことを信用してしまう面があるので深く考えねば!」と言って同胞を惑わしているという。大半の日本人は宣伝には乗ってなく、日本の敗化を信じてはいない。神国日本が負けるようなことは絶対にないと世論は沸騰し、早くもそうした輩の制裁論まで語られているという。
 こちらではその様な風評すら聞こえなく、只々懸命にコーヒー園の施肥に余念がなく月日が経つのも忘れ、コーヒーの収穫に追われ短日を忙しく立ち働いていた。