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大統領と日本移民の友情=松原家に伝わる安太郎伝=(14)=回収不能な移民への貸付け=ウナ脱耕で莫大な賠償金請求

 ウナ植民地は、実はいわくつきの場所だと『曠野の星』は書いている。いわく《ウーナは今から三十五年前(編註=1929年)ドイツ移民が入って、河畔の近くに家を建て、原始林を開拓してカカオ、ゴムなどを植付けたが、雨時季になるやマレッタ(マラリア)が発生してバタバタと倒れ、遂に全滅の悲運を甞めた。この点、平野植民地やチエテ移住地に似ている》(7頁)。外国移民なら普通は入りたがらない処だったようだ。
 翌54年にも脱耕騒ぎが再発し、《バイーアのウーナ移民は現地の官憲を激怒させたため、日本の出先官憲及び民間有志の調停が入るなど、其の闘争は深刻を極めたので、世論の不評を買った》『曠野の星』(56年8月号、19頁)。
 松原移住地でも移住者は困難に直面していた。《携行資金が貧弱な人が多く、生活と営農の困難さを訴えて、松原に借り入れを次々に申し込んでいた。ウナ植民地と合わせると松原個人の貸付金は2650コント、これは3100万円に相当する。今日の貨幣価値でみると何10億円にものぼる膨大さです。これらは回収不能なのです》(『移住研究』24号、21頁)とある。
 参考までに、54年の大卒初任給は5600円なので、2012年なら20万1800円だから、約36倍の差がある。そのまま「3100万円」を現在の価値に単純推定すれば、11億1600万円に相当する。
 ウナ脱耕事件は起きたが、結局、リオの移植民審議会は松原に、53年度分として許可した枠を使って112家族(645人)を導入した実績を評価し、新たに54年分として160家族(950人)の枠を許可した―と1954年7月30日エスタード紙は報じた。
 たとえ大統領の個人的な信頼という後ろ盾があったとしても、ウナ脱耕騒ぎがより深刻化していたら許可は難しかった。ギリギリの導入継続だったに違いない。
 ただでさえ、移住者への回収不可能な膨大な貸し付けをしていた松原に対し、止めを刺すように移植民院は、ウナ脱耕者に関する賠償金を請求してきた。
 《精神的な打撃ばかりでなく移植民院が多額の賠償金を要求してきたのである。この事件処理のために擁した経費、退去移転移住者に対するこれまでの生活費補助、農業融資など合計283コントであった。1コント=33ドル、1ドル=360円だったので、日本円にして336万円請求されたわけだ。(中略)松原がこれを支払わなければ、日本移民導入うの特許を取り消すという強硬さだった。仕方なく1955年(昭和30年)1月30日に半額を支払い、あとは5カ月後まで待ってもらうことにして、特許の取り消しを食い止めた。(中略)松原は「自分は大局的な見地から事態の悪化するのを防ぐため身銭を切って処理しましたが、外務省による解決をお願いします」と苦衷を君塚大使に訴えた》(『移住研究』24号、21頁)
 松原個人としての移住事業はここで破たんしてしまった。1954年当時の「336万円」とは、単純推計で現在の約1億2096万円だ。
 いずれにせよ、こんな大金を一移民が投資する ことは、いかにファゼンデイロとはいえ、簡単ではなかった。でも、ここで導入許可を取り消されていたら、戦後移民はどうなっていたか…。
 松原移民がブラジルに入った翌年の1954年1月、日本側で移民送り出し機関として日本海外移住協会連合会(海協連、JICAの前身)が創立され、個人でない移民事業が始まった。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)