この連載に関し、人文研の宮尾進元所長から「松原については、元コチア職員の志村啓夫(ひろお)さんが相当詳しいものを書いている」との指摘を受け、『志村啓夫文書2012』(岸本晟(あきら)編集)を調べてみた。すると総合農業雑誌『アグロナッセンテ』(92年3月、60号、30~39頁)に掲載された「第二次世界大戦後の日本移民導入の口を開いた松原安太郎の生涯」(志村啓夫著)が転載されていた。(志村文書としては278~287頁)。
これは10頁分もあり、志村の姉が松原安太郎の従兄弟・桐本とらぞうと結婚しており、志村自身がマリリアに一時期住み、コチア産業組合に勤務していて下元健吉専務理事と親しかった関係もあり、実際、松原について最も詳しく記された文章だ。話が前後するが、重要な情報が含まれているので、その内容を要約して紹介する。
松原は移住する前、1915(大正4)年、第一次大戦中の海軍機関兵の経験により南米航路の貨物船の機関士に採用され、リオやサントスに上陸し、移住候補地として決心していた。松原まだ23歳の時だ。サントスで偶然出会ったブラジル通訳協会の日本人からもらった『ブラジル語会話手引き』を使い、独学で勉強を始めていたという。その上で1918年に満を持して渡伯した。
アキルメデスと出会ったのは、戦争中だった。42年から輸入物資が減少し始め、ガソリン、石油、塩、パン粉などが配給制となり、農産物の輸送に欠かせないガソリンは農家の生命線だった。《松原はマリリアでガソリン・ポストを経営しているミゲール氏の紹介で法律関係の仕事をしているアルキメデス・マニャンエスと知り合った。このアルキメデスに配給品などの世話をしてもらうようになり、松原の耕地経営はなんら不自由する物もなく順調に何事も運んだ。世界大戦も週末に近づいた、一九四四年に松原はアルキメデスを耕地の支配人に招きいれた》とある。
終戦直後の勝ち負け抗争時、マリリアは激戦地の一つだった。《松原も旧軍人であった関係か、神州不滅を信じて疑わなかった一人だが、彼は他人の前で戦勝論を打つ事もしなかったし、戦勝組へ仲間入りもしなかった。ただ敗戦は絶対に認めなかった》という態度を貫いたようだ。
そこでアルキメデスが〃事件〃を起こした。1950年の年末近い頃、《使用人やコロノに支払うべく準備していた金が金庫から消え…同時に支配人のアルキメデスの姿も見えなくなった。まったく鳶に油揚げをさらわれたようで、松原も一時唖然となった。彼の行為に対し憎悪の念にかられた。警察沙汰も考えたが、彼に対して少し弱みもある。戦時中彼を利用して統制品を入手した事も考え、そのまま我慢していた》という。
しかし、一カ月も過ぎた頃、本人がひょっこりと顔を出した。労働党マリリア支部を代表して、南大河州にヴァルガス元大統領を訪問して、次期大統領選挙に立候補するように説得に行き、《氏の内諾を得た大成果をもって帰ってきた。ところでゼツリオ氏にマリリアには松原という大地主で、大のファンがいる事も伝えた。そうしたらゼツリオ氏が、「ぜひその松原に会いたいから宜しく…といっていた」》と報告したという。
松原は苦々しい想いでそれを聞いていた。《今頃返ってきてゼツリオ・バルガスもあったものか。第一俺は日本人で選挙権もない…》と腸が煮えくりかえる思いだったらしい。結局、持ち出した金がどうなったかも、返済すると言う話もなく、《暫く腹の探りあいで沈黙が続いた》。それから二カ月後、差出人がヴァルガスの大きな封筒が松原宛てに届き、5月の誕生日祝いの招待状が入っていた――。(田中詩穂記者、深沢正雪記者補足、つづく)