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【カンポ・グランデ沖縄移民百周年】ちむぐくるの精神永遠に=式典に約6百人、先人偲ぶ=母県の大型慶祝団が来伯

 沖縄県系人の大集団地、南麻州カンポ・グランデ市で沖縄県移民入植百周年が盛大に祝われた。1914年に完成したノロエステ線の敷設工事に携わった県民の一部が住み着いたのが始まり。市の日系人1万5千人のおよそ7割が県系人と言われる。14日は母県から高良倉吉副知事はじめ約80人の慶祝団を迎え、同市沖縄県人会が盛大に記念式典を開催した。ハワイ、ボリビア、サンパウロ市からも多数の慶祝団が出席。約600人が一堂に会し、先人の労苦に感謝を捧げるとともに、カンポ・グランデと沖縄県、南麻州との末永い友好を誓った。

 志良堂ニウトン沖縄県人会会長は「われわれ子孫は先祖の努力の賜物。先駆者の精神をしのび、これからも家族を大切にしよう」と話し、「にふぇーでーびる」(ありがとうございます)とうちなーぐちで挨拶を締めくくった。
 サンパウロ市沖縄県人会の島袋栄喜副会長は「カンポ・グランデは一番早く県人会を創設し、苦労を乗り越えてコロニアを築いた。我々もその心意気を受け継ぐ」と話した。
 稲嶺名護市長は「『ちむぐくる』『ゆいまーる』(助け合い、相互扶助の意)の精神がこの町にも根付いてほしい」と、うちなーぐちで挨拶し、拍手喝采を浴びた。
 続いて県人会から慶祝団に記念プレートが手渡され、母県からは功労者5人および80歳以上の高齢者110人に表彰状が贈られた。芸能発表の後、夜更けまで晩餐会が開かれた。
 与那原町議会の識名盛紀議長(62、与那原、しきな・せいき)は、「最高だった! 沖縄ではもううちなーぐちを使わないのに、こちらでは皆が話すので、まるで沖縄全体がブラジルに移った感じ。ここには本物のウチナー文化が残っている。僕の小さい頃のようで、涙が出た」と感極まった様子で話した。

【記念碑除幕】

記念碑「希望の大地」堂々と=移民が降り立った駅近くに

記念碑の除幕

記念碑の除幕

 沖縄県移民入植百周年記念石碑の除幕式が、13日夜にあった。移民たちが降り立った元ノロエステ鉄道駅近くの公園に設置された。
 慶祝団一行をはじめ、ジウマール・アントゥネス・オラルテ市長、島袋エジソン市議ら多くの来賓が出席し、先駆者の労苦に思いを馳せた。
 「希望の大地」と記された石碑は高さ2・4メートル、幅1・8メートル。先人の労苦への労いとカンポ・グランデ市民への感謝が日ポ両語で刻まれた。

【ソバフェスティバル】

ソバフェスティバル開催=〃郷土食〃前面アピール=慶祝団から驚きの声続々

 

 『第9回ソバフェスティバル』が7日から10日間、開かれた。通常の開催期間は4日間だが、今年は沖縄県民移民百周年と鉄道敷設百周年を記念し、期間を延長。慶祝団一行も13日夜に中央市場(Feira Central)を訪れた。
 年間を通して水~日曜日に28軒の沖縄そばをメインとするフェイラが開かれており、一月で約8万人の客が訪れる。フェスティバルは、2006年に沖縄ソバが市の文化遺産指定以来、毎年8月に開催される。
 一行はステージ前でカンポ・グランデ中央市場観光協会(Afecetur)による歓迎を受け、コーラスやダンス、今年のソバフェスティバル音楽コンクール優勝曲などの余興を楽しんだ。
 同観光協会のアルヴィラ・アッペル・ソアレス・デ・メロ会長に記念品を贈呈後、ソバ店「アパレシーダ」で同市特製沖縄そばを試食した。
 沖縄では豚で出汁をとるが、当地では牛を煮込んだ出汁を使用する。金糸卵とねぎをちらし、丼から溢れんばかりに盛られたソバに、醤油をたらして食べるのがカンポ・グランデ流。市内各地にそば専門店が55店以上、10以上の製麺工場があるという。
 そんな独自の進化を遂げた沖縄ソバに、慶祝団メンバーの多くは「母県のそばとは別物」驚いた様子。稲嶺進名護市長は「ソバリアがこんなにずらっと並んでいるのは沖縄でもありえない」とその人気ぶりに驚きを見せ、「麺のコシも味付けも全然違う。発祥は沖縄でも、その場の文化に合うものに変わるのは必然」との感想を述べた。翁長雄志那覇市長も「方向性は違うけど、美味しいですね」と話した。
 祝福のためサンパウロ市から訪れた野村流音楽協会ブラジル支部の知念宏吉会計は、「僕は沖縄そばが大好き。知り合いのそば店に行ってみたけど、麺も手打ちで美味しかった」と話していた。

【州・市長訪問】

州知事、市長を表敬訪問=文化、経済交流を目指し

州知事、高良副知事、喜納議長(右端)

州知事、高良副知事、喜納議長(右端)

 沖縄県政府代表団および県議会代表団は13日、州政庁を訪れアンドレ・プッシネリ知事と面会した。南麻州と沖縄県は1986年に姉妹提携を結んでおり、同県は交流事業として82年から技術研修員の受け入れを行っている。
 高良倉吉副知事が「人と人との文化・技術交流をもっと盛んにしたい。2年後にある世界ウチナーンチュ大会にも多くの人に来てほしい」などと話すと、アンドレ知事は「私も出席します」と交流に積極的な姿勢を見せた。
 記念品交換の後、場所を移して昼食会が開かれた。アンドレ州知事自らが講演を行い、参加者らに州の観光スポットをアピールした。
 「文化だけではなく、経済交流も始めたい」と交流活発化に意欲を見せる県人会の願いもあり、翌日は記念式典に先立ち「第1回沖縄県と南麻州の懇談会」も開かれ、州観光財団と、沖縄県文化観光スポーツ部の金良多恵子さんが観光地としての魅力を互いにアピールした。

 

ジウマール市長を訪問=「日本企業の進出歓迎」

 慶祝団一行は14日午前、市庁舎を訪れ、ジウマール・アントゥネス・オラルテ市長と面会した。訪問団ごとに市長室で歓談し、記念として沖縄の特産品等を贈った。
 慶祝団が「沖縄県民を受け入れてくれてありがとう」と改めて感謝を述べると、ジウマール市長は「沖縄移民が市に忍耐や勤勉などの価値観をもたらした」「もっと友好関係を深めたい。ぜひとも日本企業にも進出してほしい」などと応じた。

【名護市歓迎会】

〃名護んちゅ〃の絆新た=出身者が市長囲み、歓迎会

功労者に感謝状を贈る稲嶺市長

功労者に感謝状を贈る稲嶺市長

 名護市出身者とその子弟が作る「名護郷友会」(宮里和直会長)は12日夜、稲嶺進市長をはじめとする名護市訪問団5人を迎え歓迎会を行った。同市に居住する沖縄県民中およそ7割が名護市系といわれ、一同は〃名護んちゅ〃の絆を確かめ合った。
 宮里会長は「基地問題を抱える中、よく来てくれた」と歓迎の挨拶を述べた。2011年に名護市で3カ月間そば作りを学んだ玉城ニウソンさんは、「皆とても親切で、まるで家にいるようだった。空手や日本語も習うことができ、本当に貴重な経験になった」と日ポ両語で礼を述べた。
 稲嶺市長から功労者に感謝状が手渡され、夕食会が開かれた。市の関係者は順にテーブルを巡りながら歓談した。

【100年のあゆみ】

カンポグランデ=沖縄県人移住百年のあゆみ=ゆいまーる精神で困難乗り越え=うちなー魂で市発展に貢献

 乾季が訪れると赤い砂が舞い上がる、「シダーデ・モレーナ」(褐色の町)と呼ばれるカンポ・グランデ。人口わずか2千人足らずだった1914年、ポルト・エスペランサ(南麻州コルンバ市、ボリビアとの国境近く)から東へと進んだ敷設工事と、同州トレス・ラゴアス市(サンパウロ州との州境)から西進した工事が同市で接合し、バウルーとコルンバの両市を結ぶノロエステ線が完成した。一部の工夫らが完工後も居残り、駅裏に小さな植民地を拓いたのが当地コロニア始まりだ。

 

沖縄移民のブラジル移住=「金のなる木」を求めて

ノロエステ鉄道工夫

ノロエステ鉄道工夫

 耕地面積も資源も乏しい沖縄での庶民の生活は貧しく、国の経済は海外との交易に頼っていた。1900年にハワイへの出稼ぎ移民が盛んになると、一部の成功者が故郷に送金して話題を呼んだ。
 奴隷解放により労働力が不足したブラジルが移民導入を始めると、「ブラジルには金のなる木、コーヒーがある」と当地への移民が急増した。1908年着伯の第1回笠戸丸移民781人中、半数近くの325人が沖縄県民だった。
 しかし多くは薄給で長時間労働を強いられ、盛んに移動が行われた。その一部が、難工事だが高賃金のノロエステ線鉄道工事に参入した。

 

苛酷な鉄道敷設工事

 ポルト・エスペランサに集結した300人ほどの工夫のうち、70人程度が日本人だったといわれる。トレス・ラゴアスでも60人程の日本人が働いていたという。
 どこまでも続く高温多湿の原始林に挑む工事は苛酷を極め、椰子の葉で作った掘っ立て小屋で雨露をしのぎ、豆とマンジオッカの粉で空腹を満たした。蚊や猛獣はもとより、マラリアの流行では多数の犠牲者を出した。
 起工7年目にして工事が終了すると、一部の日本人は新たな仕事を求めて移動し、一部は鉄道付帯工事の大工仕事にありつき、一部は同市に住み着いた。彼らはシャクリニャ、マッタ・ド・セグレード、バンデイラなど植民地を次々に建設し、野菜作りや酒造、養豚、コーヒー園など小資本事業で地道に生活の基盤を築いていった。
 同市も交通の要所として発展し、銀行や自動車代理店、製麺工場、家具工場などが続々と建設された。

 

初の日本語学校設立

ハンジャ日本語学校の児童と教師(1918年)

ハンジャ日本語学校の児童と教師(1918年)

 18年、同市に居残った大城蒲戸、赤嶺徳・亀兄弟、外間源体(ほかま・げんたい)、大城次郎らが中心となって日本語学校が設立された。アンデス山脈を徒歩で越え、アルゼンチン経由で鉄道工事に着手したペルー移民の山城興昌(やまき・こうしょう)がリーダーとなった。

 駅裏の耕作地の一部を校舎敷地として提供した大城次郎が波平(沖縄の方言でハンジャ)出身であったことから、「ハンジャ学校」の愛称で親しまれた。これが現在市内にあるヴィスコンデ・デ・カイルー学校の前身である。

 

沖縄県人会支部の誕生

戦前に立てられたカンポ・グランデ沖縄県人会館

戦前に立てられたカンポ・グランデ沖縄県人会館

 完工から6年目を迎えた1920年に日本人会が、22年にカンポ・グランデ沖縄県人会、26年に球陽協会カンポ・グランデ支部が誕生した。
 球陽協会は、1926年に県人会の一本化を目指してサンパウロ市で発足した、現ブラジル沖縄県人会の前身。傘下に40の支部と3千人の会員が集まり、カンポ・グランデもその一支部となったが、41年、第二次世界大戦の勃発により活動停止に至る。
 戦後は、勝ち組・負け組騒動の中で行われた母県への救援活動でコロニアの活動が再興。カンポ・グランデの有志もサンパウロ市の活動に呼応して救援物資集めに奔走し、53年には県人会支部が復活した。その後62年まで日本人会と一体となって活動した後、独自の会館の必要性に迫られ独立、66年に現在の場所に会館を落成した。

 

移民黄金期の到来=市の発展を支える県系人

カンポ・グランデ駅プラットフォーム

カンポ・グランデ駅プラットフォーム

 第二次世界大戦により、移民の流れにも10年近くの空白期間が生じたが、1952年に赤嶺邦春一家が呼び寄せられたのを皮切りに、黄金期が到来した。沖縄移民はじめカッペン移民やボリビア移住地、ヴァルゼア・アレグレ植民など他の植民地からも転住者が住み着いた。
 戦前の百姓は戦後、中産階級となり、農地も大資本の機械化農園に様相を変えた。今ではコロニアは三世、四世の時代となり、約1万5千人の日系人(市の人口は約80万人)が農業をはじめ商工業、政治、教育、文化等の多岐に渡る分野で活躍し、市の発展を支えている。
(『カンポ・グランデ日系コロニアの歩み』『写真で見る沖縄県人移民史』)