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生誕70年を記念し、特別なプログラムを組んだクリチーバの文化施設(Luiz Cequinel/FCC)
生誕70年を記念し、特別なプログラムを組んだクリチーバの文化施設(Luiz Cequinel/FCC)

反体制的な前衛詩人=パウロ・レミンスキー生誕70年=クリチーバで記念の催し=日本文化にも造詣深く

 詩人、作家、文芸批評家、翻訳家として多彩な才能を発揮した文化人の故パウロ・レミンスキー(1944―1989)が、8月24日に生誕70周年を迎えた。出身地のパラナ州クリチーバでは18~22日まで、レミンスキーの名を冠した文化施設「Casa da Cultura Paulo Leminski」で特別プログラムが行われた。
 ポーランド人の父、黒人の母のもとに生まれたレミンスキーは幼少時からその知性の高さが評判となっていた。独自の詩の書き方を編み出し、ほとばしる創作欲から短い詩、ハイカイを作り、フランスの格言を使った言葉遊びなどに親しんだ。
 1958年、14歳でサンパウロに出てサンベント修道院で学んだ。ミナス州ベロ・オリゾンテで開催された前衛詩の学会に参加した時、ブラジルを代表する詩人の一人アロルド・カンポスと知り合って友人となり、多くの作品を共同制作するようになった。
 17歳で、画家で造形作家の女性と結婚。文壇には1964年、20歳のときにサンパウロの具体詩(コンクリート・ポエトリー、前衛詩の一ジャンル)創作グループを代表する詩人デシオ・ピグナタリによる雑誌『Invenção』でデビュー。66年に現代詩のコンクールで優勝した。
 レミンスキーは柔道にも親しみ、黒帯を所持していた。65年に予備校講師として歴史と作文を教え始めたが、それとは別に柔道も教えていた。
 最初の妻と離婚した後、詩人の女性と2回目の結婚をするが、前の妻とその恋人も合わせて4人で、ヒッピーのコミュニティのような場所で1年以上、共同生活をしていた。2番目の結婚では男児3人、女児2人に恵まれた(末娘のエストレラ・ルイス・レミンスキーはミュージシャン)。その後は、広告関係の仕事に携わりながら創作活動を続けた。
 レミンスキーは音楽の作詞家としても有名だ。カエターノ・ヴェローゾに詩を提供し、1981年リリースのアルバム「Outras Palavras」にその楽曲「Verdura」が収録されている。
 カエターノといえば、ジルベルト・ジルなどとともに、60年代後半に始まったトロピカリズモ(前衛芸術と国内外の大衆文化の影響下で生まれ、ブラジルの伝統音楽と革新的な表現方法を融合させた音楽を中心としたムーブメント)を牽引したことで有名だ。レミンスキーはその後、1970年から89年までカエターノのパートナーとなって共同制作をし、自身の創作活動も当時の音楽から影響を受けることとなった。
 レミンスキーはその生い立ちからインテリの前衛詩人と考えられがちだが、カウンターカルチャー(対抗文化)に傾倒し、反体制的な雑誌等に実験的な作品を発表していた。
 また翻訳家でもあり、英語、フランス語、ラテン語、ギリシャ語、スペイン語に加え、日本語も学んでいた。ペトロニウス、アルフレッド・ジャリ、ジェームス・ジョイス、ジョン・ファンテ、ジョン・レノン、サミュエル・ベケット、三島由紀夫らの作品を翻訳した。
 日本文学・文化には造詣が深く、三島作品としては評論『太陽と鉄』を翻訳し、松尾芭蕉の伝記も執筆している。(wikipedia項「Paulo Leminski」などより)